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2011.08.31

天声人語

天声人語

8月30日、朝日新聞朝刊の天声人語の語りは実に愉快である。 これをブログに保存しておきたいと思う。

「このごろ民主に見ゆる物、居座り、号泣、内輪もめ。 詣で、すり寄り、宗旨替え。 操り人形、虚言葉、勝ち馬探しの品定め。 雨後のタケノコ候補らは、我ぞ我ぞと立ちぬれど、彼ぞと思う人はなし。 巧みなりけるはぐらかし、事新しき風情なく、挙党一致や分裂や。 
処分中なる剛腕は、私利怨念の闇支配。 手勢となりし人々は、次の選挙をにらみつつ、損得利害はかりつつ、御輿担ぎに参じゆく。 黄昏時になりぬれば、某所各所に顔合わせ、毎度なじみの数合わせ。 
今は昔の宇宙人、引退表明覆し、おのが所業は棚に上げ、同志をペテンとこき下ろす。反省の色さらになく、キングメークに手を貸して・・・ 」

この日の天声人語の語りは、私も含めて国民の多くが、いらいらしながら感じていたことだと、思う。 実際、世界の各国から笑われるような、日本の国会にはならないで欲しい。 
私の希望するところは、早急に国会議員の、大幅な
定数削減を実現することである。 確か、民主のいわゆるマニフェストにも、明記していたのではなかったのか! 

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2011.08.27

台風

台風

日本の南方海上に二つの台風がある。 その一つは、ちょうど9月1日頃、いわゆる二百十日に来襲しそうな気配である。 「二百十日」と言えば、同じ題名で夏目漱石の小説がある。 私の、青春時代、たまたま文庫本で、この小説を読んだとき、面白くて一人で大声で笑っていたことがある。 実に愉快な小説である。

日本の今の時勢では、誰でもが、いらいらしており、気分が重く、鬱状態になりそうなことが多すぎるが、そんな時、この小説を読み返したらいいかもしれない。 圭さんと碌さんが噴火している阿蘇山にアクセスする道中記である。

この年齢になると、昔の文庫本は懐かしいが、字が小さすぎて読みづらいことが多いが、今ではインターネットの無料サイトで気楽に読むことが出来る。 
http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/751_14958.html

京都の今、戸外はかんかん照りで、とっても歩けたものでない。 こういう時は、熱中症にならないように、こまめに冷たいものを飲みながら、「二百十日」を楽しんだらよい、と思う。

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2011.08.19

俳句の日 2

俳句の日 2

8月19日は語呂合わせで、「俳句の日」である。
真性の俳句ではないが、575で、ぼやきの作句を考えてみた。

熱帯夜 何時まで続く ぼやきかな  
猛暑日の 記録更新 おらが町  
サイレンを 聞いて ”こまめの 水”を飲む  
大文字 みっともなかった 火を拝む  
汚染など 気にはしてない 高齢者  

おもしろき ことも無き世を おもしろく 住みなすものは     なでしこジャパン
(高杉晋作・野村望東尼の和歌より真似句)
8/18 なでしこジャパンに国民栄誉賞が贈られた。        おめでとう!

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2011.08.15

終戦の日

終戦の日

あの日、私達、大阪陸軍幼年学校第49期第6訓育班生徒は、
疎開先の金剛山下、錦川国民学校を早朝に発って、速足で、
河内長野の千代田台にある、大阪陸軍幼年学校へと
ひたすら歩きました。 第2種正装、銃剣は着けてましたが、
この行軍はそれまでになく厳しいものでした。
2日前に疎開したばかりなのに、何が起こったのかも知らされず、
幼年学校に着いて、カンカン照りの広場で、
直立不動で、玉音放送を聞きました。
雑音が多くて、陛下の言われた内容は
全く理解できませんでした。
が、生徒監の関大尉がピストルを磨き始め、
異様な雰囲気を感じました。
が、一方、常時世話役だった下士官殿は、
我々迷える生徒達の気持ちを和らげるように、
ゆっくりと日本は降伏したことを、
教えてくれました。
そして幼年学校の生徒だったという証拠書類は、
全て燃やすように言われました。
広場に大きな穴が掘られ、ここで、日記や
機密書類が、3日3晩、燃え続けました。
場合によっては、幼年学校生徒は全員、
銃殺されるかも、と言う懸念があったからでしょう。

茫々66年、今こうして生きていられることを、
感謝するばかりです。
万感の思いの一部をご披露しました。

そしてこの大戦で、亡くなられた万国の英霊に
その御冥福をお祈りいたします。

ほのぼの

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2011.08.14

プラザキサ そして死

プラザキサ そして死

昨日、8月13日の朝日新聞朝刊に、「プラザキサカプセル」の服用で、これまでに5人(70代一人、80代4人)が腸管出血などで死亡した、との報道があった。 紙面だけの情報では、その詳細は解らないが、重篤な出血性の副作用として81例も報告された、とある。
その中には、私の場合と同様、しつこい鼻血で苦労された方も多いことだろう。 私も既に、80歳であるが、内臓での出血に先んじて、鼻血が出たことが却って好かったのかもしれない。 いずれにしろ危ないところであった。

医師は患者に投薬する場合、基本的にマニュアル通り処方するが、患者にはそれぞれ個人差があり、とりわけ75歳以上の後期高齢者などは、機能的には成人と言うより小児に近いと、考えるべきである。 だから患者は先ずは少量の服用から始めた方がよい。 とりわけ、それまで服用していたワッファリンの効果が残っている状態での、プラザキサの服用は避けるべきである。 私の場合、最初110mgのプラザキサカプセルを、処方箋では1日、朝食後1、夕食後1,となっていたのを夕食後1のみとした。 それでも鼻出血の傾向があったので、次に75mgカプセル1で試みたが、やはり駄目だった。 カプセルだから半錠とするわけにも行かず、また75mgより少ない量のカプセルはないので、結局、プラザキサ服用は自発的に中止した。

この間、何度も鼻血に悩まされ、救急外来で、止血処置をしてもらったし、また、内臓出血や血尿もなかったので、何とか一命は取り留めた。 が、鼻中隔に孔があいてしまった。

愚や愚や汝を如何せん。

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2011.08.10

送り火

送り火

この16日、大文字の送り火で、津波の被害にあった陸前高田市の松の木に、祈りの言葉を書いた333本の薪が、焼かれる企画があったのに、どこからか横槍が入って、急遽中止となった。 横槍の理由は薪が放射能汚染されているかも、と言うことだった。 実際、測定したところ、全く汚染はない、と言うことも事前に解っていた。 のに、何故かしら、薪は地元に送り返され、地元で、先祖の迎え火として焼かれた。

全国の人々は、このニュースを聞いて、なんと京都人は非情なんだろうと、思ったに違いない。 京都人の私も、そう思った。 薪を送り返すことに決まったとき、京都市長も涙ながらに、残念であると慚愧の声であった。 実際、その後も、市当局に、電話やメールで、今回の件についての非難が相次いだ。

市長始め、これほどの多くの声があるにも関わらず、横槍、横車を押し通した実体とは、いったい何処の誰なのだろう。 
昔、終戦後、我が国で全国規模のゼネストが起こりかけたとき、それを絶対的な時の権力者、マッカーサー司令官がゼネスト中止を命令したときのことが思い出される。 今のこの日本、そして平安の都であるべき京都を支配するような、そんな権力の実体とは、何なんだろう。

何れにしろ、同じ京都人として、情けない話である。 地震、津波の被災者の方々に深くお詫びしたい。

今日は8月10日、(ハートの日)であった。 

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2011.08.08

立秋 2011

猛暑日、熱帯夜が続く中、暦の上では立秋となった。

皆様、残暑お見舞い申し上げます。

私め、80歳も過ぎると、夜のトイレ回数も頻くなってくる。 まだ戸外が暗い午前4時前か、ベッドの中の耳に、早起き鳥ならぬ、蜩の声が遙かに聞こえてくる。

 ふる里に 蜩の海 ありにけり (朝日俳壇 尾道市 吉田睦月)

蜩の声を聞くと、まだ私が学生の頃、信州妙高高原の 京大笹ヶ峰ヒュッテに数泊したときに聞いた蜩は、文字通り 蜩の海 だった。

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2011.08.03

傘寿

傘寿

8月3日、この日、妻と共に二人して、満の傘寿を迎えた。 これは奇跡に近い。 嬉しく有難いことである。 我が人生において、最も慶ばしいことである。 実際、これまでのことを振り返るとき、とりわけ、私の病歴のことを振り返るとき、この日を迎えることが出来たのは奇跡的である、と思う。
これには、共に傘寿を迎えられた妻の、内助の功が絶大であったからである。 そしてまた、家族の心強いサポートが絶大であったからである。 加えて大学関係者始め多くの方々の御尽力の御陰である。 私は、このような運命を導いてくれた宇宙玄黄、天地神明に感謝したい。

加えて、吾が人生で最も楽しかったことを、挙げるとするならば、妻と共に、海外旅行それもツアーではなくて、個人旅行をしたときの、思い出である。 あのときのその日、その日は必死であったが、今にして思い出すとき、妻との共通の思い出として、実に楽しく語り合えることが出来る。

反対に、最も悲しかったことは、私が40年前、当時、神戸大学病院の麻田 榮教授の執刀の下、第一回目の心臓手術を受けた年、手術は成功し、私は社会復帰できたのだが、母がその心労の所為か、その翌年に70歳で亡くなったことである。 また、その17年後、当時、松江日赤の松田光彦部長の執刀の下に、第2回目の心臓手術を受けたとき、それは18時間にも亘る難手術だったとのことであるが、私は甦ることが出来たが、やはりその心労のためか、父がその翌年に89歳で亡くなってしまったことである。 思えば、世にこんな親不孝な息子はいない。 私にとって最も悲しい思い出となっている。
ただ、その意味でも、今年有難くも叙勲を受けることが出来たことは、亡母、亡父に対する、ほんのささやかな、ささやかな供養になってくれたのでないか、と思っている。 合掌。

話題は変わる。
既にして、現在、名古屋ハートセンター副所長をされている、米田正始先生の執刀の下、第3回、第4回目の心臓手術を受け、御蔭様でこうして、傘寿を迎えることが出来た身として、自分なりに、勝手にこの身は、臨床的にも貴重な患者であるはずだと、思ったりしている。 毎日、毎日がある意味で、冒険の連続であるが、これを記録し、且つ次の米寿に向かって、前向きに生き抜くことが現在の、最も重要な課題であろう。 

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