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2009.08.29

アクセス

Cosmos22

アクセス

拙ブログ「大凡人」へのアクセス数が(やっと)、50,000 を越えた。 率直に嬉しい。
調べてみると、この大凡人が一等最初にアップしたのは、2004年3月9日、「昔教授ありき」であった。
今も続いている私達のパソコン同好会、MacwinArrowの会で、ブログを教えてもらったのが、抑もの始まりである。 まさに「つれづれなるままに」書き込んできたのが、そのタイトル数も325を越えている。 当初は、365を目標にしていたのだが、これはクリアできそうである。

アクセスしてくれている人達は、その多くが、私のブログが途切れると、又、一身上に何か、具体的にはまた、病気入院したのでないか、と心配されるとのことである。 だから、在宅で、一応元気であれば、「ほのぼの日記」なり、「旅行記」なり、「昔の思い出」なり、はたまた、「愚痴、呟き」など出来るだけ、アップするように心懸けているが、果たして内容的に、「合格」しているかどうかは疑わしい。

昔買った操作の簡単なデジカメを持ち歩いて、PhotoDelux のソフトを使って、トレミングしたりして、出来るだけ、ブログに写真を付けるように努力している。 が、この年齢になると、又、今年のように酷暑や異常気象が続くと、デジカメの出番も少なくなって、申し訳なく思っている。 これから、涼しくなり、京都の山々に彩色が始まる頃、そして自身が元気であれば、尚なおブログを継続していきたい、と思っている。 
アクセスして下さる皆さま、有り難う。heart04sign01

ちなみに、拙ブログの名称、「大凡人」は、私が島根大学を定年退官する際、「退官記念事業会」が出版してくれた「自分史」に付けた名称である。 平成7年3月4日のことであった。

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2009.08.27

芥川

芥川

今年の芥川賞受賞作品、「終の住処」を読了した。 正直言って、私には、何の感動もなかった。 芥川賞は、現代の純文学に与えられるものとのことだが、現代の純文学とは、こんなものかと、著者の磯崎氏には申し訳ないが、寂寞感が残っただけだった。

これは多分私自身が、会社勤めも経験して無いし、それにもまして私自身に文学性がないからだろう、と思う。 所詮、小説はあくまでもフィクションだから、のめり込まなくても良いのだが、同じ時間を費やすのなら、私はもっと感激できるものを読みたいと、思う。

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2009.08.22

戦友

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戦友

寝台戦友であったN氏が亡くなった、との訃報が入った。 昭和20年4月、同じ京都から大阪陸軍幼年学校に入学したとき、N氏とは寝台戦友となった仲である。 自習室の机も隣同士だったから、密度の高い仲間であった。 彼は、私と違って、学習も体育も全てに於いて優れていたから、将来国軍の禎幹となると私は予想していた。 

終戦後、復員する前に、彼に一筆を依頼したところ、大きく、「戦友」と墨書してくれた。京都大学在学中、学内で一度会ったことがあったが、学年も学部も違うこともあって、その後は年賀状の交換だけの仲となっていた。 全く久しぶりに会ったのは、東京での大幼会(大阪陸軍幼年学校同窓会)の折りであった。 彼は、我が国実業界のトップの一人となっていた。 一番の出世頭であった。

この機会に、たった5ヶ月だったが、寝台戦友として共に、貴重な体験となった、大阪陸軍幼年学校第49期、第6訓育班、第11學班の当時の思い出を記してみたい。

第6訓育班は第11學班、第12學班の2部からなり、第11學班は外国語として、フランス語を、第12學班はロシア語を学習していた。 中学校では皆、英語は学習していたが、フランス語、ロシア語は初めてだったので、皆相当に戸惑った。 が、戦友のN氏は学力が断然優れていて、普通にこなしていた。 

Classe
それに比して私は、ともかく、丸暗記に頼るしかなかった。 フランス語の時間、授業の始まる前には、その日の当番生徒が、「第1學年、第11學班、総員31名、欠席者○名、出席者○○名」、とフランス語で、申告しなければならない。 私はその決められた文句をそれこそ丸暗記したのだった。 だからその冒頭の文章は今でも言うことが出来る。 ちなみに日本語の「クレヨン」はフランスでは鉛筆である。

幼年学校では、自分のことは、俺、相手のことを、貴様と呼び合った。 「私」を使うのは、上官に対する時だけである。 俺、貴様を使うのには、不思議とすぐに慣れた。 周りが皆使っているのだから、慣れるのは速かったし、慣れると案外此の方が、喋りやすいのである。

朝 (午前6時、但し6,7,8月は午前5:30)、起床ラッパが鳴り響くと、皆が、それぞれに、「起床!」と、大声で飛び起きる。 起きるとすぐに、寝台戦友とペアになって、二人それぞれの掛け毛布の整頓をする。
この整頓は、決して歪んでいたりしてはイケナイので、真面目にキチンとしなければならない。 しかも迅速が要求される。 だから戦友との呼吸の一致がなによりも必要なのである。

自分の寝衣も真四角に畳み込まねばならない。 朝の点呼のラッパまでに運動場に集合しなければならないから、ぐずぐずしていると、朝の便所にも行けないことがある。 

朝の点呼も訓辞だけで終われば良いが、時にはその後で、朝の体操が続くことがある。 深呼吸だけなら良いのだが、跳躍運動が入ったりすると、脹れあがっていた膀胱が耐えきれなくなって、跳躍中に、ジャーと派手に放尿してしまうこともある。 戦友のMはその時少しも騒がず、「くそ! 出てしもうたか!」と、悠然として着衣(運動着)のまま放尿していたのが印象に残っている。

点呼が終わり、洗面が終わると、校内の北端の森の中にある報国神社を参拝するために駆け足で走る。

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 参拝が終わると、今度は遙拝所で東を向いて、軍人勅諭の奉読をする。 毎朝これを繰り返すのだから、軍人勅諭は自然と全文を丸暗記できてしまう。 駆け足で部屋に帰ると、いよいよ朝飯の時間となる。 食卓には、47期生1名、48期生2名、そして我々49期生3人、計6名で囲むのである。 このメンバーは毎週ごとに替わるから、49期生はいろいろと幅広く、多くの先輩達との交歓が出来るのである。 当然49期生は、先輩より先に食卓に控えており、必要な準備手配をしなければならない。 だから、ここでも全て迅速が要求されるのだ。

先輩と食卓を囲むこの時間は、極めて重要な時間帯である。 例えば食事のマナー一つ一つについて、先輩からの指導がある。 学内での生活を含め、将校生徒としての、躾教育の場となっているのである。
私自身、この場で教育された躾が、今の歳になっても、生活の基盤となっていることが多い。 勿論堅い話ばかりではなく、幼年学校生活についての「生活の智慧」的なアドバイスも良く受けたものだった。 思えば人格形成にとって、本当に有難い場であった。

昭和20年というと、巷では、食糧不足で、何処の家庭でもひもじい思いをしていた筈だが、幼年学校では、毎日毎食、押し麦こそ入っていたが、お米の御飯の給食であった。 大阪幼年学校の周辺には、果樹園が多かったので、しばしば、果物の特配もあった。 当時としては、実に恵まれた食生活であった。 ただ一週間に一回だけ、主食が雑炊のことがあったが、これが又、美味しかったのを覚えている。

午前中は学習、午後は教練、体操、剣道、訓練があった。 夕食後は、各訓育班の寝室付き模範生徒(47期生:護民さんと言われていた)による軍歌演習指導がある。 隊列を組み行進しながら、大声で斉唱するのである。 大阪幼年学校校歌は勿論のこと、軍歌は、行軍歌を始め実に多種多彩である。 これを順番に全て覚えねばならない。 
と言うのは、軍歌演習の時、その日歌う軍歌の選択、そして先導は、その日の当番がしなければならないからである。 同じ軍歌ばかり歌うわけにもいかず、「知りません」などは決して許されないからである。 当番でなくて、隊列を組んで行進しているとき、自分の知らない軍歌が選択されたときにも、知らないからと言って、黙していては絶対にイケナイ。 知らないときには、「ウオー! ウオー!」と、大声を出して皆と唱和(?)するのである。 私も、しばしばこれで切り抜けたことがある。

軍歌演習の後、學班ごとに入浴がある。 大きな廣い風呂にはいる。 幼年学校では、猿股でなく、誰しも越中ふんどしである。 ふんどしを外して、素裸になると、私のように、中学一年次より入学した者は、まだ毛も生えてない子供の体格であるが、中学2年次より入学してきた者の中には、既に堂々と真っ黒に毛を生やしているオッサン風も居て、まるで家族風呂みたいである。 N氏がどうであったかは定かに覚えてないが、背中を流し合ったことはある。

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夜の自習は、自習室で、18時50分より始まる。 21時になると、日誌を書く。 書くのは墨書である。 始めて墨で日誌を書く、これには、当初困惑した。 
その後、点呼、伝達事項、反省などがあり、21時45分には、消灯ラッパが鳴り響くのである。 消灯ラッパの音色は、何か郷愁を誘うものがあって、今でも当時が懐かしく思い出される。 

「♪♪ 新兵さんは可哀相だねー 又寝て泣くのかねー ♪♪」

第六訓育班60名は、第一 ~ 第3の3つの寝室に分かれていた。 フランス語、ロシア語組混交である。 各寝室ごとに47期生の護民さんが、一人ずつ配属されており、起居を共にしていたから、実際には、消灯後のしばらくの時間は、怪談を始めいろいろと四方山話しや寝物語を聞かされたのも懐かしい思い出である。 怪談を聞いた夜などは、何故かしら、夜中に、遠く離れている暗い便所に行きたくなったものであった。

怪談は、今の私でもまだ嫌いである。 閑話休題。

ここで、寝台戦友N氏と共に歌った 大阪陸軍幼年学校校歌 を捧げ、N氏に心からの哀悼の意を表したいと思う。                合掌

1. 菊の御紋(みしるし) 栄えに輝く 千代田台
   勅諭(みこと)かしこみ 朝夕な
     御稜威(みいつ)を仰ぐ 御垣守 われ
2. 至誠純忠 剛健持久の 道を践み
   金剛山下 菊水の
   流れをむすぶ 御垣守 われ
3. 皇軍(すめらみいくさ) 統べさせ給い 紘(あめのした)
   仁慈あまねき 大君の
   辺にこそ死なめ 御垣守 われ

Kongousan

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2009.08.18

日の丸と民主党

日の丸と民主党

民主党がその集会に掲げた旗が、実は、我が国の国旗、日の丸を切り張りして作ったものであることがわかり、轟々たる非難の声が挙がっている。 折しも、総選挙の最中と言うことで、民主党の党幹部は、その弁明、陳謝に躍起となっている。 

新聞記事を見る限り、その党旗の前に、例の小沢一郎が何喰わぬ顔で坐っているのだから、もう処置なしである。  元来、民主党内には、元社会党の残映があり、国歌「君が代」を否定し、国旗「日の丸」を無視する元日教組のゴーストが居座っているのだから、これくらいのことは、日常茶飯事なのかも知れない、と思ってしまう。

私はそんな党は嫌いである。bearing 

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送り火

日本の各地に大文字山がある。 丁度お盆の頃の夜に点火されて、それぞれその地のイベントとなっている。 大抵は大文字焼きと称しているようである。 が、京都ではあくまでも大文字の送り火という。 京都の街を取り囲む五山に、真っ暗な夜空を背景にして、大文字、妙法、左大文字、鳥居型、船型の五つの型に時差を設けて、点火が行われる。 五山の送り火である。

私の幼い頃には、我が家の二階から、大文字山が見え、大文字の送り火が見えた。 近所の人達が、集まってきて、一緒にわいわい言いながら、送り火を見た思い出がある。 が、今では、高いマンションが邪魔をして、山そのものも見えなくなってしまった。  ので、今年は出町柳までEidenで出掛け加茂大橋の上から送り火を拝した。

大文字の送り火は今や観光行事となっているので、加茂大橋の上は、日本人の老若男女のみならず、多くの外国人達も入り交じっていて、大混雑であった。 ポリスさん達も、大勢くり出していて、「橋の上では立ち止まらないで下さい」「左側通行を守ってください」などと、大声で注意しているが、なかなかその通りには行かない。 橋の下の鴨川公園は、目を凝らしてみると、真っ暗な中に、何と大人数の人達が、座り込んで点火の時を待っている。 とてももう、割り込む余地はない。 凄い人数である。

加茂大橋を渡りきったが、とてもでないので、元に戻りかけたとき、折良く8時0分、大文字の点火が始まった。 真っ暗な山に、大きな大きな赤い大の文字が燃え上がった。 周りの人達が、一斉に、携帯のカメラで、その点化された「大」を撮っている。 私は、数珠を手にして送り火を拝した。 多分来年はもう来ないだろう、と思いながら。

幸いなことに、大文字を鑑賞している内に、10分が過ぎ、松ヶ崎山の「法」の字が真っ赤に燃え上がった。 その点火の揃い踏みが余りにも素晴らしかったので、観衆の中から、思わず拍手が沸き上がった。 高野川沿いの奥に、素晴らしい「法」を見ることが出来た。
印象的であった。  実は 昨年は松ヶ崎まで歩いて見に行ったのだが、距離的に近すぎて
崇高美という物がなかった。 今年の「法」にはそれがあった。 

送り火は矢張り距離をおいてみた方がよい。

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2009.08.15

終戦記念日

終戦記念日

8月15日、終戦記念日。 先日来、とりわけ昨晩のNHKのテレビ番組、「忘れないで 私達の戦争」など、当時共に戦争を体験してきた世代の我々には、極めて感慨深いものであった。 戦争とは所詮「人殺し」であり、先に相手(敵)を倒した方が勝者であり、人殺しに躊躇していると、相手に殺されて敗者となる。 人間の歴史は、人類始まって以来、常に戦争の歴史であった。 

戦争、人殺しは、勝っても負けても、悲劇である。 だからもう、戦争は止めよう との声は、これ又歴史始まって以来、人間の念願でもあった。 が、人間が人間である限り、戦争、人殺しは、無くなることはない、と、私は思う。 悲しいことだが、これが現実だろう。 本当に、戦争が無くなったとき、その時、人類は滅亡しているに違いない、と、思う。 悲しい人間の業である。

テレビ番組、「忘れないで 私達の戦争」で、戦場の現場を体験してきた人達が、今までは黙ってきたが、死期も近づいた事もあってか、「本当」のところの話をされていた。 刀折れ、弾尽き、兵糧もなく、圧倒的な物量の敵軍による殲滅作戦に追われる毎日、を体験しながら、何とか生き延びて、帰還できた兵、将校、そして、民間人、の証言は身をえぐられる強烈なものであった。 そこには、万物の霊長と言われる人間の姿はなく、まさに野獣の姿であった。 あの場にあっては、野獣の神経、感覚でなければ、生き延びることは出来ないのだ、と言うことを実感した。

生きて帰還できた兵、将校、共に、死んで逝った戦友、部下に対して、自分だけが生き延びて生還しえたことに、罪悪感というか、申し訳ない気持ちが常に付きまとうのだった。 その悲しくも、重苦しい気持ちが理解できるだけに、本当に悲しい現実が今も在ることを知った。
放送の中で、戦死が「無駄死にした」と考えることは、絶対出来ない、と言っている元将校が居た。 

今度の「大東亜戦争」で、戦死された人達は、決して決して無駄死にではない。 個人的には死は悲しいが、大局的に見れば、「大東亜戦争」は、白人達による東亜の植民地を解放した崇高な戦争でもあったのだ。 日本は確かに、負けたけれども、その負け戦の中から、フィリッピンも、マレーシアも、シンガポール、ミャンマー、インドネシア、インド、全て、それまでの白人支配の植民地は、戦後独立することが出来たではないか! 

もし、「大東亜戦争」が無かったならば、いまだに、アジア諸国が独立できていたかどうか、疑わしいところである。

今朝、私は鷺森神社に詣で、記念碑(忠魂碑)に拝礼し、戦陣に倒れた英霊達に、その崇高な死による崇高な成果に対して、謝辞を述べ哀悼の意を表してきた。 

 

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2009.08.10

ハートの日

8月10日は、語呂合わせで、「ハートの日」である。

これにちなんで、今日、名古屋国際会議場・センチュリーホールでは、いわゆる心臓病に関する講演会が開かれた。 私も、早速に出席 申し込みをし、新幹線の切符まで、手配し入手していた。 

のだが、昨日からの集中豪雨による災害、交通マヒ、それにもまして今、接近中の台風9号による災害予測の情報に苦慮したあげく、今朝になって出席を取りやめることとなった。 講演会では、日野原重明 先生によるお話しもあるので、是非とも出席したかったのだが、多分、「往きはよい良い 復りは恐い」事になりそうに思えたからである。 講演会に参加できなくなったのは、誠に残念だが、これ以上災害が出ないことを祈りたい。

なおこの日、私は自宅に在って、高橋 治 著 「風の盆恋歌」 を完読した。  ハートに響く何かしら艶めかしい感銘があった。                                                        

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2009.08.06

地デジ

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地デジ

再来年から、現在のアナログ方式のテレビは全て消滅し、全てテレビ放送は地デジ方式になる、とのことで、NHKなどでは、最近さかんにその宣伝放送をしている。 デジタル方式が、アナログ方式より遙かに優れていること、必要性などを、繰り返し喧伝している。

 
事実はその通りだと思う、が、実際の所、我々後期高齢者にとっては、大変な迷惑であり、出費であり、それではと進んで地デジに切り替えようと言う意欲は、全くない。 今、家にあるテレビで、毎日の生活は充分満たされているのだし、買い換えや切り替えをする気にはなってこない。 実際にかかりつけの電気店に赴いて、地デジに切り替える見積もりを訊いてみると、小型のテレビの購入代よりも、地デジ用のアンテナ設置代の方が高価に付くとのことが解り、益々、やる気をなくしてしまった。 

政府筋は、エコポイントなどで、テレビの買い換えを勧誘しているが、後期高齢者にとっては、実際の所、目の前に寿命の有効期限が迫っているのだから、その様な無駄な投資をする気にならない、と言う背景も手伝っている。 例えば80歳の年金暮らしをしている老人が、テレビを新しく買い換え、新しくアンテナを付け替えたとして、その我が家で、後、何年生きてられるのか、在宅していられるのか? と言うようなことなど、政府筋は考えたことがあるのだろうか?

真面目にこの様な後期高齢者の立場、心情などに至るまで、考慮し、善処していただきたいものである。

いくとせを この家に生きむ あてもなく 虚空にたつるや 地デジアンテナ 

  
 

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2009.08.04

梅雨明け

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(写真は1994.08.03の宝剣岳)

梅雨明け

気象史に残る遅い梅雨明けで、8月3日、それが宣言された。 今までのどんぐもりの空が、紺碧色に澄み渡り、久しぶりに入道雲の純白が輝くのを見た。     路上での気温はさすがに、35℃を越えるぐらいで、これは老身には堪える。 

が、その日は我々夫婦の誕生日なので、何か思い出に残るような企画(?)として、娘のmegumuさんと共に、ランチタイムの会食を楽しんだ。 彼女は多芸多才で、好奇心が強く、今も受験勉強中(?)なので、話題が豊富で、楽しい会となった。
瀬戸の息子からは、楽しいお祝いメールが届き、電話での会話を楽しんだ。 彼等も既に、結婚20周年になるとかで、中央アルプスの駒ヶ岳のお花畑、千畳敷カールを楽しんできた、とのこと、みんな元気なのがよい。 
千畳敷カールは、もう15年も前になるが、我々二人も、8月3日に、ここを訪れ、さらに写真の後ろに見える崖道をよじ登って、宝剣岳を踏破した思い出がある。 若く、元気なときにはいろいろと良い思い出を作っておくのがよい。

今日8月4日、今日も空は紺碧、太陽がイッパイである。 

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2009.08.01

108段

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徒然草 第108段 (京都新聞記事より)

寸陰惜しむ人なし。 これよく知れるか、愚かなるか。 (中略)
されば、道人は、遠く日月を惜しむべからず。 ただ今の一念、むなしく過ぐる事を惜しむべし。 もし人来たりて、我が命、明日は必ず失なわるべしと告げ知らせたらんに、今日の暮るるあひだ、何事をか頼み、何事をか営まん。 我らが生ける今日の日、なんぞその時節にことならん。 (中略)
光陰何のためにか惜しむとならば、内に思慮なく、外に世事なくして、止まん人は止み、修せん人は修せよとなり。

(時間を何のために惜しむのかと云えば、心中に雑念を排し、周囲に俗事を避け、瞑想するなり、修業するなり、そのためにこそなのだ。)

今日は8月1日、八朔である。 梅雨はまだ明けやらず、今日も蒸し暑い曇り空である。 昼前頃からは、雷さんの訪問もあり、所によっては又、集中豪雨となるらしい。 こんな中 朔日ということで、鷺森神社に参拝に出掛けた。 一昨日歩いたときは、スイスイと歩けたのに、今日は体が重い。 さては肺にまた水が?かと思ったが、帰宅後シャワーを浴び、体重計に乗ったら、やはり55kgと体重も増えていたが、明らかに足の筋肉がついたみたい、なので気にしないことにした。   実際、昨晩は空調を付けて薄布団を掛けて寝たら、朝まで熟睡だった。
                                               
上記の徒然草の文中 「ただ今の一念、むなしく過ぐる事を惜しむべし。」は私のような後期高齢者には身につまされる言葉である。 法師は光陰を惜しんで、瞑想なり、修業なりにこそ努べし、と説いているらしいが、後期高齢者では、すでにして瞑想は「如何に生き、如何に死ぬか」であり、修業は「如何に人様に迷惑をかけぬように ピンピンコロリ の技を磨くか」と言うことになるのでないか。 

物事に執着せず、こだわりを捨てる、色即是空:万物は変化して必ず滅びる、私も毎朝、この般若心経を唱えているが、解脱することは、本当に難しい。

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