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2007.11.25

遠目

Variation1

(写真は修学院離宮の山)

遠目

昨日、今日と京都は小春日和の快晴である。 今年最後の3連休とあって、紅葉狩りなどの人出が多い。 人出が多い割に、「今年の紅葉は色が悪い、鮮やかさがない」などと、ぼやいている声が多い。 それでもみんな集まって記念写真を撮る。 集合写真を撮るときの一人一人の表情を、第三者的に見ていると、その多様さが実に面白い。 それぞれが、写真だけは実物以上に撮ってもらいたい、と言う心情なのだろうか。 実際、出来上がってくる写真を見て、自分がよく写っていると、写真を撮った人の腕がいいと誉め、自分の写りが悪いと、写真家が下手くそだとけなしたりする。

今年の紅葉、確かに昨年よりは色がよくない様だ。 が、小春日和の陽光を受けた山肌のヴァリエーションの美しさは変わらない、と思う。 近づいてみると楓の葉の色は確かに、鮮やかさがないけれども、遠くから見ている分には、結構美しい。 そう言えば、女性の美しく見える場は、「夜目、遠目、傘の下」と言うのがあったっけ。 今年の紅葉は、遠目がよい。

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2007.11.20

初冠雪

初冠雪

今年は、11月19日朝、比叡山に初冠雪を見た。 麓の神社の楓の木は未だに、緑というのに、昨日今日と急に木枯らしが吹き、冬模様となった。 今年は秋抜きで、夏から直に冬になるみたいだ。 この異常には、樹木連も困惑していることだろう。 

困惑と言えば、昨年末から今年にかけて、例の京大病院での内紛で、結果的にはK教授が退職されるという事件(?)があった。 K教授は世界的な心臓血管外科医であり、私も、6年前、2001年6月21日に先生の御執刀を戴いて、心臓弁2箇所(僧坊弁、大動脈弁)の人工弁への弁置換手術を受け、一命を取り留めた元患者なのである。 その後も、しばしば、京大病院外来を訪れ、検査や診察を受けてきていたのであったが、その頼りとするK先生が、京大病院を去られるという現実に、本当に困惑した。 内紛の真相とか実状とかは私には解らない。 が、現実に、元患者としては、なにか、梯子を外された感じで、全く、途方に暮れたのだった。

ところが、昨日偶然、そのK先生のwebを発見し、先生が、外国ではなく、内地の豊橋ハートセンターにて、以前同様、御活躍と知ることが出来た。 この発見は私にとって、素晴らしい、救いそのものであった。

自己の心臓機能に、不安を感じられる人は、気さくに、K先生に御相談されるのがよいと思う。 先生のwebは下記である。
http://www.masashikomeda.com/
なお、豊橋ハートセンターは
http://www.heart-center.or.jp/jp/div02.html
で、アクセスできる。

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2007.11.16

背中

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背中

映画「象の背中」を見てきた。 末期ガン患者の死に様を描いたものである。 この種の話は、これまでにも、多くの著書があり、ドラマがあり、また現実に、自分の身近にも見聞する話なので、映画を見て参考になるところはあったが、胸を突かれるような感銘は、正直なところ無かった。 自分が、鈍感なのかも知れない。

実際、今、現役で、ばりばり仕事をしている人が、ある日突然、ガンを宣告され、余命半年と言われた状況を考えれば、事態は確かに深刻そのもので、鈍感ではいられないと思う。が、実際この日、映画館に来ていた観客の多くは、私も含めて高齢者が多く、ある意味では、すでに余命イクバクの人達ばかりだった。 端的に言うと、死に頃の人達である。
この種の人達には、自身のこととしては、鈍感であっても当然かも知れない。 

映画の中の主人公は、ガンの末期には、緩和医療の施設、ホスピスで家族と一緒に暮らすことが出来、家族に看取られながらの臨終であった。 これは映画のストリ-としての救いであった。 

が、現実には、日本では、緩和医療施設の数も少なく、ホスピスを利用できる人は限られている。 映画の主人公は「私は死ぬまで生きていたい」と、言って末期ガンの苦痛に耐えたのだったが、これは本人にとっても、また、傍にいる身内の人達にとっても、極めて悲痛なことなのである。 

ここで私はまた以前と同じことを繰り返すようだが、我が国にも、尊厳死を認める法律を早急に作るべきだと思う。 私も所属している「日本尊厳死協会」も、

http://www.songenshi-kyokai.com/

今年もその年次大会で、尊厳死の「法制化」を強く呼びかけている。 末期ガンの人達の中には、尊厳死を希望する人が多いはずである。
  
嗚呼しかるに我が国会は、いま、重要法案を置き去りにして、徒に官僚の腐敗の追求と、食品の不正表示問題のみに時間を浪している。 いずれも「後ろ向き」な事ばかりである。 
日本国民のため、人類のため、世界のためと言うもっとも基本的な国会の存在意義を亡失して、議会は今、全く機能していない。 実に情け無い国会である。 情け無い議員達である。 こんな国会なら、無くてもよいと、思う人達が出てきても仕方ないであろう。 恐ろしいことである。

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2007.11.08

美しき青きドナウの旅

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美しき青きドナウ  の旅

(鼻血の件はさしおいて)

私の初めての「美しき青きドナウ」の旅を紹介したい。
前章にも記したように、この旅の動機は、塩野七生女史による「ローマ人の物語」であった。 その全巻を読了したときから、いや正確にはその途中からでも、ドナウ川は一度見聞したいと思っていた。 思えばあのローマの時代から3000年近いのである。

夜間にハンガリーのブタペストを出航した観光船、セレナーデ2号は、ライトアップの王宮を見上げ、電飾の「くさり橋」をくぐり、やがて、右も左も真っ暗なドナウ川を静かに遡上していった。 この時の天気予報では、明日は最低気温0℃、最高気温11℃と言うことであった。 深夜12時に船は、ヴィシェグラードという港に着き、停泊した。
 
翌朝、夜が明けるに連れて、この地が全くの寒村であることが判ってくる。 ドナウ川に沿って、国道11号が走っているが、車は稀にしか通らない。 村にも人っ子一人見かけない。 ただ船室から、国道の近くに、塔(シャラモン塔)が見える。 その裏山には、砦のような建物が見える。 この地は、ローマ帝国の支配下にあった、「バンノニア」の前線基地としても、重要であったのだろう。 この地に派遣された、その当時の戦士達のことに思いを馳せると、何とも言えない感懐を感ずるのだった。 世界史的には、この地はまた、13世紀の蒙古襲来、15世紀のオスマン・トルコの襲撃と、数々の戦歴を秘めているのだ。

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他の観光客達は、それらの遺跡を見る為もあって、バスにて出掛け、船を離れた。 私は一人、船に残って、ヴィシェグラードからエステルゴムまでのクルーズを楽しんだ。 この日、風はさすがに冷たかったが、天気は快晴、ドナウの川面は青くなめらかで、小春日和的であった。 またこの日、ドナウの両岸の景観、その黄葉の連なり、しかもその満々たるドナウの流れの岸辺に、人っ子一人見ない不思議さ。

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時折下りの観光船とすれ違うが、正に稀である(冒頭の写真)。 とにかく全てが、現在の時限を超越した「ゆったり」の中にある感じで、船上のデッキにあって、吾一人これこそがドナウのクルーズではないか! と、満悦の境地であった。

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(黄葉の樹林は黄色にしか色づかないカナディアン・メープルや、ポプラ、そしてマロニエなどによって構成されている)

午後1時、船はエステルゴムに着く。 この時、船上より、エステルゴムの大聖堂、その紅葉の景観を撮影できたのは、これまた、一人船上でドナウクルーズを楽しんだ吾人一人だったのだ。 

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この夜、船はエステルゴムを出航し、プラスチラヴァへ向かった。 ドナウ川は見た目には悠々と流れているようだが、意外に急流でもあるらしい。 船はしばしば、運河の水門に入り、時には一気に10メートルの高さを稼ぐのだった。 明朝、プラスチラヴァでの気温は、最低気温2℃、最高気温9℃と言うことであった。

プラスチラヴァは既にスロバキア国であり、事実ここがスロバキアの首都である。 直ぐそこに見えるドナウの対岸は、ハンガリー国なのだから、我々日本人の感覚では、不思議な気がする。 寒風の中、バスでプラスチラヴァ城に登る。 

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この日、風は冷たかった。 城と言うけれども、現在は実際は、国会議事堂の関連施設が置かれているだけである。 昔、それも太古、この丘にケルト人が集落を構えた遺跡が残されていた。 

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いわゆるこれら「蛮族」とローマ帝国が国境の覇権を握るべく、この丘でも数々の戦歴があったことだろう。 この日、スロバキアの首都であり、観光地でもあるこのプラスチラヴァで見苦しかったのは、至る所で見られた「ラクガキ」であった。 ラクガキは何処の国でも、国の恥である、と思う。

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Rakugaki230  

船は正午にプラスチラヴァを離れ、芸術の都、ウイーンへと向かった。 ウイーンまで8時間ほどかかるが、結構、水門も多い。 この辺り、ドナウの両岸は既に、オーストリアであり、ドイツ語が通じると思うと、気持ちが軽くなる。 船中でも、ドイツ語講座があったりして、愉快である。 
例えば、私の場合、ウイーンではまた、病院を訪ねることになっているのだが、その担当の医師に初めて面したとき、日本では、かしこまって「宜しくお願いします」と言うものだが、それをドイツ語ではどのように言うのかと、質問した。 が、答は、ドイツでは、「宜しくお願いします」に相当する言葉はない、とのことであった。 
要するに、ニコニコとしながら Grüβ Gott! (グリュースゴット)  (こんにちは) と、言えばよいとのことであった。 これは早速にウイーンの病院で実行したのだった。

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(写真はウイーンでの停泊地、遙かに懐かしいウイーンの森が見える)

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(船の右岸にはUNO City 国連都市が見える。 この日、ウイーンのドナウ川には ゆりかもめ が飛翔していた)

病院でのビジネスは有難いことに、午前中で終わったので、午後は一般の観光客と行動を共にすることが出来た。 と、言っても、ウイーンの繁華街は、3年前と同じくただ喧噪であり、シュテファン寺院はいつも何故か工事中であり、大通りには愉快なパーフォーマンスが立ち、音楽会の切符売りのオジサン達が立ちはだかり、観光馬車は相変わらず公道で、馬糞をまき散らしていた。 

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(シュテファン寺院 屋根が美しい)

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(ガウンの人は音楽会の切符を薦める人達)

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(馬糞はその場で直ぐに片づけられる)

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(Cafeは、この日、寒かったこともあって、満員であった。)

街角にはジプシーらしい子供達が屯しているので、ひったくりに警戒しなさい、とのことなどで結局は歩き回ることもなく、かの有名Cafe Mozart のケーキを買って帰り、船に戻ってから、二人で食べた。 
え? 美味しかったかって? 勿論、美味しかったです。

深夜、船はウイーンを離れた。 さすが両岸は大都会の夜景であった。 右岸に見える明るいビル群は UNO City 国連都市らしい。 船は2時間ほどにて、クレムスに入港した。 クレムスの天気はこの日、雨模様、最低気温5℃、最高気温8℃ということであった。

ここはいわゆる世界遺産、バッファウ渓谷の東の端に当たると言うことだが、何故こんな所に観光バスが多いのか、不思議に思うほど、なんでもない小さな街であった。 自由時間が割り当てられたので、街のシンボルだという、シュタイナー門の写真を撮ったり、スーパーを覗いたり、焼き栗の屋台の写真を撮ったりして時間を潰した。 スーパーの商品には、賞味期限のことなど何処にも書いてない。 要するに、食べられるものは食べられるのである。 賞味期限の1日、2日の差を騒ぎ、なお食べられる食品を直ぐに破棄する日本は、まるで馬鹿でないかと思われているに違いない。

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船に還って、船内で今日はイタリアン風ランチをとる。 船は動き、いよいよデルシュタインに停泊した。 この辺りからいわゆるバッファウ渓谷観光の船が多く、ひっきりなしにその運航が見られる。 が、生憎この日は雨降りとなってしまった。 船内のあちこちに、てるてる坊主がぶら下げてはあったが、この国では効果がないらしい。 

雨の中をミニトレインで、村まで行き、ここからは自由行動、雨のバッファウ渓谷の写真を撮り、ドナウの岸辺まで逍遙し、船に戻った。

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(写真は鴨氏からご提供いただいた)

この日、雨のバッハウ、世界遺産の街、デュルンシュタインは静かであった。 雨に濡れた狭い石畳の道には、人影はなく、それ故にこそ中世の街の感触が味わえた。 

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街の狭い中庭近くから、見下ろすようにして、ドナウ川を撮ったが、遠くも近くも、この日は煙っているようであった。 案外珍しい景観なのかも知れない。

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(バッファウ渓谷)

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この地はまた、オーストリアのワインの生産地としても有名であり、ワインの店も多く見られた。 ワイン畑は既に落葉寸前であるが、その並びは美しく、また、そこに残されている貴腐ワインの果実が誇らしげであった。    夜には、船内の展望ラウンジで、バッハウ渓谷のワインの試飲会が行われた。 これを今回の旅の楽しみの一つとしていた人達も多いことだろう。 デュルンシュタインのいろいろな銘ワインが用意されたらしい。 

が、本来、遺伝子的にアルコールの飲めない私には、こんなときどうにも成すすべもない。 せいぜい、今度生まれかわったら、少しはワインも楽しめる形質であって欲しいと、願うばかりであった。 

船は今夜はここで停泊し、明日明るい時間帯に、バッハウ渓谷を遊覧遡上することになっている。 ただし天気予報は、明日も雨、最低気温2℃、最高気温5℃とのことであった。

10月24日、午前8時半、セレナーデ2号は、世界遺産バッハウ渓谷のクルーズに入った。 川の両岸に美観があるので、各人が、船の左舷や右舷と写真を撮るのに忙しく、文字通り右往左往と動き回る。 デュルンシュタインの修道院教会の写真、何処の観光案内書にも出てくるものだが、今日のは秋霖に霞んだ独特のものとなった。 そのほかの景観、数葉並べてみることにする。

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(秋霖に霞む修道院教会と伝説のケーンリンガー城址)

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(秋霖に煙るが如き St.Michael 教会)

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( この日なればこその この風情 幻想的な St.Johann) 

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(静寂の中の Schwallenbach)

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(霧立ち上る Aggsbach Markt の街並み)

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(クリックして画面を拡大してみると、左の方に、ローマ時代の遺跡か(?)水道橋が見える)

この辺り、丘の勾配が急なのか、ドイツのライン川流域で見たものと違って、ブドウの木が段々畑形式に連なっている。 日本のミカン畑と同じである。 その作業の大変さが想像できる。

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バッハウ渓谷の遊覧、写真撮影が終わる頃となって、船内展望ラウンジで、日本茶のティータイムが用意された。 この頃になると、お客同士、それぞれに、和気藹々としてきて、気持ちいい。 嘗ての旅行の話など、特にご婦人方では、話が弾むのだった。

正午、船はメルクに到着した。 4班に分かれてバスに乗り、それぞれ傘をもって、メルク修道院に向かう。 こんな小さな街に、こんな広大なそして立派な修道院の建物があるとは、実際驚きである。 もうすでに1000年の歴史があり、ベネディクト派のものと言う。建物は厳しい崖の上にあり、また、正門の両サイドは砦をかねていた。 ここにも、古い諸々の戦歴があったのだろう。 ただこの修道院内には、10万冊と言われる蔵書の書庫があったのは凄い、と思った。

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25日早朝、船はグレインとかを出航し、リンツに向かって遡上する。 天気は今日も、雨らしい。 左側の、秋霖に煙る林の感覚、何処かで見た感じだなぁと思っていたが、あれは、プリンストンのカーネギーレイクの風情であった。

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船ではランチに「松花堂弁当」が出た。 久しぶりに、日本食を食べて、不思議に、元気が出てきた。 午後、リンツの街の観光に出掛ける。 霧が深い。 ので、最初バスで登った、ベストリンクベルクの丘は、前も後ろも霧の中、本当はここから見下ろすドナウの景色がいいのだそうだが、この時は、心の目で見るだけに止まった。 ただ振り返って見上げた時の、巡礼教会を包んでいる朝霧の風情が美しく、写真に収めた。 これは私のホームページ「ほのぼの亭」に掲載しているが、ここでも再掲してみたい。

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丘を下って、リンツの中心広場、ハウプト広場にはいる。 この街は、モーツアルト、ベートーベン、ブルックナーと大音楽家達との繋がりが多く、街の至る所にその足跡がある。音楽愛好家の人達には、たまらない魅力の街であろう。 

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今ひとつ、街の至る所に見えるのは、教会であった。 一寸多すぎるのではないか、と思うほどである。 私達は、ほどほどに、ただ、リンツの名物ケーキ、リンツァートルテを買って帰った。 ものの本によると、このケーキは、1696年以来の歴史的銘菓なのである。 確かに、おいしかったデス。

この夜、グループごとに記念撮影をし、さよなら夕食会があり、明日の下船の準備をしてクルーズ最後の就寝となった。 船は夜のうちに、ドイツのエンゲルハルツェル港に着いていた。 明日の天気も、曇り時々雨、最低気温1℃、最高気温10℃ということであった。

26日朝、ドナウ川上の船の周辺は、深い霧であった。 デッキに上がって、二人で写真を撮った。
午前9時過ぎ、思い出深いセレナーデ2号を、下船し、バスにて一路、ミュンヘンへと向かった。 ドナウを離れると、空は一転、快晴となり、高速道路の周囲の紅葉が美しかった。 

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ミュンヘン市内に入って、600年の歴史があるという料亭、「Haupt」で、大ソーセージのランチをとり、中心街を散策した後、シェラトンホテルに入った。 ここからいよいよ、明日、ミラノに飛び、ここで乗り継いで、関空へと帰国するのであった。

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(ミュンヘンの晩秋)

ドナウよ! 楽しい旅を有り難う!

 
Danke Vielmals! und Aufwiedersehen ! 
 

                                                                                                                                  

                                                                   

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2007.11.02

ブタベストの突然

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(写真はバッハウ渓谷:写真は何れもクリックすると拡大されます)

ブタベストの突然

それは予期せぬ突然の出来事だった。 

関空~ミラノ~ブタベスト と長時間の飛行機の乗り継ぎ後、深夜にドナウ川にて停泊している、Nトラベルの観光船 セレナーデ2号の306号室に入った。 既に疲労の極に達していたので、とにかく就寝したが、部屋の空調が判らず、のぼせた状態での起床となった。 19日朝、(尾籠な話だがトイレで力んだところ)、右側鼻孔より鼻血が噴出した。 鼻血は良くあることで、大抵は綿栓をしておけば、自然と止まるものである。 が、この日はそれは予期せぬ突然の出来事だった。 異常出血で、鼻血は綿栓をひたひたと赤く染め、過剰な血液は口内に溢れ、洗面台を真っ赤に染めた。 鼻栓を外すとドローンとした鮮血の固まりが尾を引いて出てくる。 この事変を添乗員のNさんに連絡した。

すぐに現地駐在員のMさんが駆けつけて下さり、氷枕の用意と、朝粥の配膳をして下さった。 本当は、この日の朝食は、船内食堂でのバイキングであり、この機会に多くの人達との会話が楽しめるはずであった。 それを楽しみにしていた妻には申し訳なく、加えて今後の日程について、早急に、その可否を決定しなければならない、状況であった。
この時、駐在員のMさんが、とにかく出血を止めるためと、ブタペストの病院行きを手配して下さり、そちらに向かうこととなった。 

他の観光客が、バス4台で、ブタベストの市内観光に出掛けたあと、秘かに、彼と彼の妻、Mさん、現地日本人のKさん、更に加えて、medical translator のジュリーさんと、タクシーで、ジュリーさん推奨のブタベスト一番の内科病院に飛び込んだ。 一番の病院であるだけに、長時間待たされたが、この間にも、出血は止まらず、彼と彼の妻は、パニック状態の中、旅行遂行の断念に傾いていった。
 
今回の旅行に際して、彼はこれまでの心臓手術とその後の経過、現在服用している医薬品の種類と量などの詳細を英文して保持していたのが役に立った。 女性の院長先生はそれを見てすべてを把握し、血液検査をし、そのデータに基づいて、投薬の指示をし、耳鼻咽喉科の先生を紹介してくださったのだった。 幸いにもこの日の午後にそのアポイントメントが採れたので、再びタクシーで、耳鼻科の先生の所へと走った。 先生の診察室は、裏町の崩れかけた建物の5階にあった。 パソコンこそは置いてあったが、まるで彼が子供の頃に見かけた町医者の診察室のように、ガランとしていた。 
患者は彼等日本人グループの他にドイツ人家族が居た。 が、とにもかくにも、先生の処置で、鼻からの大出血は一応収まった。 彼の鼻の両方の鼻孔には絆創膏が貼られて、液体が漏れないように処置された。 これでは口でしか息が出来ないので、彼の姿は益々悲愴的であった。 これまでの出血で口は既にカラカラであり、彼はポカリスエットのようなスポーツドリンクを所望した。 が、それは入国の際、没収されていた。
タクシーで船に帰る途次、また、出血があったので、再び耳鼻科先生の診察室を訪れたが、すでに先生は帰り支度の様子であり、これ以上の措置を望むなら、そこにある病院に入院するしかない、との説明であった。

これは患者の彼にとって、もっとも恐ろしいことであった。 大出血が収まった状況で、なんとかウイーンまで維持し、3年前に利用した、ウイーン~関空直行便で、帰国することを、妻の了承を得て、決心したのだった。

船に還ったその夜は、船長さんによる歓迎会が開かれる予定だったが、彼と彼の妻は、唯おとなしく船室に残り、306号室に配膳された食事をとり、添乗員のNさんに氷枕を用意していただき、また、現地駐在員のMさんには、ウイーン~関空の帰国便の手配をお願いした。 
この間、Nさん、Mさん、Kさん、そしてジュリーさん、みんな極めて親切で、患者の彼と彼の妻は、正に「地獄で佛に会った」感じであった。 二人は心の中で手を合わせていた。
なお、病院関係の支払いは、カードで済ますことが出来たし、ジュリーさん達への支払いは、一時的に、現地駐在員のMさんが立てかえて下さった。 これらの経費は加入していたAIUの旅行保険でカバーされるだろう、とのことであった。

その夜、船はブタベスト王宮のライトアップを鑑賞しながら、ドナウ川を遡上し始めたのであった。 

この日、10月19日は、実は彼の第一回心臓弁置換手術の36周年記念日であったのである。 昭和46年10月19日、神戸大学病院で、麻田教授の執刀の下、彼は僧坊弁の人工弁への弁置換手術を受けた。 当時はまだ、心臓手術は臨床実験段階であったが、彼の場合、奇跡的に甦った。 その時以来36年間、彼は人工弁部位での血液凝固を防ぐために、血液凝固阻害剤としてのワッファリンを、真面目に 3mg/day 服用し続けているのである。 脳血栓などの障害を引き起こす血液凝固はこれで防げるが、反対に出血の際には、なかなか血が固まらないと言う難点があった。 それでも彼はこれまでに、何十回か、海外出張や海外旅行を実行してきていたのであった。

さて、その後、Mさんにより、日本の本社や、AIU東京本社との接触が図られたが、Mさんの話では、ウイーン~関空の航空便は、昨年秋に廃止され、今は利用できないとのことが判った。 最短でも、ウイーン~アムステルダム~成田~関空だという。 この状況の中で、こんな乗り継ぎの繰り返しなんか出来るものではない。

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10月22日、彼は昨夜も口の中が乾いて眠れなかった。 鼻で息が出来ないことの苦しさ。
彼は真っ暗な午前4時に既に起きだして、体を拭き、体調を整える。 船は既にウイーンの港に停泊していた。 9時過ぎに他の観光客が4台のバスに分乗して、ウイーンの観光に出掛けたあと、彼と彼の妻は、現地駐在員のMさんとウイーンでのmedical translator NUさんと4人で、タクシーを駆って、AIUとの提携病院に駆けつけた。 ウイーンにはAIUとの提携病院があり、ビジネスはスムースに進むのである。 
ウイーンのこの病院は、素晴らしく立派なものであった。 先生方も立派であった。 内科の女性の先生による検査と診察の結果、帰国までの日程中の詳細な指導があり、同じ病院内の耳鼻科の先生への連絡をして下さった。 耳鼻科の男先生は、彼の鼻の中を詳しく診断し、処置し、さらに帰国までのまさかの用意にと、鼻血処置剤SPONGOSTANを提供して下った。 これは、Johnson-Johnson の製品であり、日本ではまだ見たことがない。 とにかくこの時より、鼻で息が出来るようになった。

その後も306号室には、毎晩、Nさんによって、氷枕が用意され、配慮を戴いたのだが、矢張り彼の睡眠は常に、断続的であり、往々にして、鼻からの出血を見た。 その時には、大事にしているそのSPONGOSTANを柱状に切り、これを鼻孔中の挿入して、大出血を防がねばならなかった。 帰国の日まで果たして維持できるか、彼は心配であった。

そんな折り、現地駐在員のMさんは街に出たおりに、薬局を探して、その現地での購入に努力していただいたが、この製品は病院以外では手に入らないものであった。 それに代わるものとして、MさんはSTRYPHNONという、止血剤アデノロンを含んだガーゼを購入してきてくださった。 これによって、彼は精神的に、パニックから逃れることが出来、いわゆる他の観光客とともに、「美しき青きドナウの旅」をエンジョイする余裕さえも生まれたのであった。

Nさん、Mさんによる気高いほどの配慮と行動、そして常に行動を共にし、彼を支えていた彼の妻の存在がなかったら、恐らく彼は、ドナウの露と消えていたことだろう。

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( 永劫の川:美しき青きドナウ)

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(エステルゴムの大聖堂:船上よりその黄葉を見る)

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(朝靄のなかの修道院)

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