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2004.08.16

終戦の日

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まさかそこまで、考えて決定したわけではないだろうが、終戦の日が、お盆の中日というのは、考えてみると、不思議なことである。 
この日、英霊は神として、靖国神社、護国神社 に祭られ、参詣される。 一方、身近のお墓には、先祖の霊として、子や孫や、身内の人たちから、線香をあげられ、お経が供えられる。
私も、だから、神社とお墓の両方にお参りに行った。 神社では、例えば、私の兄の場合、その戦死が、決して無駄死にではなく、少なくとも、大東亜諸国の独立に貢献したのだ、と話し慰霊した。 兄自身には、彼なりの、人生の目的があったのに、それが大東亜戦争のために、不実になった、その無念さを、慰霊したのだった。 
その後、先祖の霊と共に、冥土より此岸に帰り来ているという兄の墓に詣で、般若心経を唱え、兄の霊の冥福を祈った。思えば、「無」を説いている般若心経は、生きている人間に対するよりも、むしろ、死者の霊を慰める説法の様に思われる。
8月15日という日は、不思議な日である。 一日にして、戦死者の慰霊と冥福祈念の両方が なされうる日なのである。 そしてお参りをすることによって、こちらの心も何故かしら、安んぜられるのである。
終戦の日の決定、まさかそこまで考えられていたわけではあるまいに。


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2004.08.03

誕生日

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今日、8月3日は私の、正真正銘の誕生日である。 私め、満73才と、相成った。 73年前、それこそ、クーラーも何もないその時代、この暑い時期に、暑い京都で、私を生み給うた母には、ただただ、感謝感謝の気持ちでイッパイである。 と、云うことで今朝は、母の墓前に御礼の挨拶に行ってきた。
私には、正真正銘でない誕生日が、3っつもある。 その一つ目は、10月19日、二つ目は、4月8日、そして三つめは、ええ・・・と、6月21日だ。 それぞれ、伸るか反るか、一かパチかで受けた、心臓の弁置換手術より、甦った日である。 これら三つの誕生日のことは、自身、よく覚えている。 
が、正真正銘の誕生の時のことは、自身、その時、予備知識もなく、ただただ必死だったので、何も覚えていない。 同時に必死の思いだったであろう母に対して、誠に申し訳ないことである。 

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誕生日について、今ひとつ、追記しておく必要があるかと思う。
実は、私めの妻の誕生日も私と同じなのである。 まさに生年月日が同じなのである。 珍しいことだと、人々は云う。
私の「へその緒」が鎮座まします箱「千代の寿」の記述によると、私の産婆さんは 藤井園世 さんであり、出生時 昭和六年八月三日午前二時〇分 生 と記述されている。
ちなみに、妻の方の情報によると、妻の誕生は、早朝だったという。 だから、私の方が、二、三時間は早く生まれてきたようである。

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2004.08.02

あの日、あの事、あの人達

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あの日、あの事、あの人達

昭和19年、当時京都一中、1年生であった、私は、12月7日は農業動員で、宇治川の南に広がる、向島地区の田圃の中にいた。 長い何本かの竹竿を担いで、運んでいたところ、異常にふらふらするので、「竹竿を運ぶとは難しいものだな」 なんて思っていたのだが、なんと気がつくと、その時、田圃が左右に揺れていたのだった。 大地震でした(南海大地震)。しかし、当時、それらしき報道はなされなかったのです。

12月8日は、農業動員の次の日ということで、私達1年生は学校は休みとなりました。私は家の2階におり、母はその時、階下で編み物をしていました。 玄関の戸が開いて、誰かが入ってきました。 中学四年生として、兄が在籍していた京都三中の先生2人でした。 当時三中の四年生達は、京都を離れ、愛知県半田市の中島飛行機工場に、学徒動員されていたのです。
母は、先生達が、兄に予科練を勧めに来たのだと思って、何か弁明していました。兄は体が小さいので(実際、体格は少し生長が遅れていて、小柄だったのです)予科練には向かない、とかいろいろ云っているようでした。
と、突然 母の悲鳴に近い泣き声が2階にまで聞こえてきたのです。 母の泣き声を聞いたのは、私は生まれて初めてでした。

私が、階下へ下りたとき、もう、先生達はいませんでした。 母は私に兄が、動員先で、死んだんだと、短く云い、うろたえていました。 「そんな馬鹿な、・・・」と、私は母を慰めかけましたが、無駄でした。 当時のこととて、家にも近所にも、電話はなく、郵便局から父の勤め先に電話しました。 父は、当時のいわゆる軍需工場の工場長をしてましたので、多忙だったのですが、とんで家に帰ってきました。 私も、父が帰ってきてくれて、ホットしました。

母が父に泣きつきましたが、父は、「死んだというなら仕方ない」と短く云っただけでした。 母は、「そんなこと云ったって・・・」と、不満でしたが、とにかく、急いで、汽車の切符を手配し、二人で、愛知県の半田市まで行く用意に追われました。 当時、汽車の切符を二人分手に入れることは至難だったのですが、事情が事情だけに、即日手に入ったようです。

中学1年生の私と、小学校5年生の妹との二人で、急遽、留守を守ることとなりました。2人が両親の留守中何を作り、何を食べていたのか、記憶にありません。 が、近所の人たちが何かと、親切にしてくれたとの印象は残っています。 とにかく、3日ほどして、兄は遺骨となって帰ってきました。 私が兄の遺骨を京都駅から、家まで、胸にかけて還りました。 近所の人達が、山端街道の両側に並んで、迎えてくれました。

その晩、暗い電灯の下で、母が、私達に、兄の遺骨を見せて、話してくれましたが、兄の即死のことは云いませんでした。 兄が即死したと、知ったのは、京都三中のあの時の同窓生達が、後年母校の校庭に、「紅燃」の碑を建てたとき、その同窓会に招かれた時でした。 当時兄と一緒だった 石黒さん から 兄は煉瓦に頭を打たれ、白い脳みそが見えていたとのことでした。 遺品となった兄の日記には、必ず、その日の日記の、言葉の最後には「最後の努力」と書かれていました。 兄は動員中も、次の進学のこと、将来のこと、についてやる気満々だったのです。 即死は、あれほどやる気満々だった兄には、残念至極だったに違いありません。 残酷です。 合掌。
戦後、兄の同期生達が、この学徒動員の記録を編集し、出版されました。 また、時に小説となり、演劇となり、学徒動員60周年に当たる今年も、「奪われし青春の墓碑銘」として、書籍が出版されて来ています。
 学徒勤労動員の記録編集会 『紅の血は燃ゆる』 (1971)
 渡辺一雄 『あ〃紅の血は燃ゆる』 (1986)
 佐藤明夫 『哀惜1000人の青春』 (2004)

生まれつき体が小さく、体力が劣っていた兄を、母は、常に激励し、特訓し、「運動会で負けても、勉強で勝て」「たとえビリになっても、落伍はするな」と励ましていました。そして、兄は、その母の言葉を、一生懸命守っていました。それだけに、兄の死は、母にとっては、誠に真に耐え難いことだったに違いありません。
母が亡くなったとき、その懐には、兄の当時の写真が入っていたのです。

母が兄を偲んで詠んだ短歌が残っています。

母の身にかたときもこそ忘れまじ 吾尽きるまで胸に抱かん 
沈丁花子の忌の墓に供えつつ 独り語るを吾はたのしむ
あまたなる人の心に生きており 亡き子らの死も悠久に生く

吾が子を失った母の悲しみほど、大きいものはありません。

そんな中でも、一億玉砕がスローガンであった当時の日本では、兄が戦死なら、弟がその敵を討つというのが、望まれる姿でありました。 当時、中学一年生の、弟の私は勇躍して、陸軍幼年学校を受験し、合格し、昭和20年4月、大阪陸軍幼年学校に入学したのです。少年兵ですが、帝国陸軍の一員となったのでありました。

  兄も征(逝)き 母納屋かげに 黙然と 
           背を撫でくれし 十四にて征く 
                   (宮崎市、島村宣揚)     

幼年学校での生活は、厳格でしたが、また極めて建設的でした。 が、昭和20年8月15日、日本は敗れました。大阪府南河内郡千代田台の大阪陸軍幼年学校に在籍していた私達に、突如、乞食姿で全員帰郷すべし、との命令が下ったのです。アメリカ軍が、堺に上陸し、幼年学校を接収するべくこちらに向かっているとの情報が入ったからです。折しも大野宣明校長閣下は東京に出向いておられ不在でありました。 が、全権を委任されていた堀尾中佐は、苦慮されたあげく、幼年学校の将校生徒達が、昭和の白虎隊となることを心配されて、即刻全員帰郷を、決断されたのでありました。

 我々は翌16日、迷彩された運動着を身につけ、深夜、三三、五五、千代田台を離れたのであります。 学校の近くの民家の人達が、久しぶりに屋外でのんびりと、床机に座って涼みながら、我々が、足早に通り過ぎ、去ってゆくのを見て、「可愛そうに」と呟いていたのが今でも耳の底に残っています。 数少ない電車をそれでも何とか乗り継いで、京都の市電に乗れたのは翌日の深夜でした。

 京都駅から、市電が河原町丸太町に来たとき、私はここが河原町今出川だと勘違いして下車しました。 その時市電の車掌さんが、懇ろに、小さな少年兵の私に向かって、深々と頭を下げ、「ご苦労様でした」と言ってくださったのです。 あんな感激したことはありませんでした。 平和な今の時代になって、京都では毎年の恒例行事として、高校駅伝や全国都道府県対抗女子駅伝が都大路を駆け抜けて行われます。 その時、河原町丸太町がテレビの画面に映る、と、私はいつもあの車掌さんのことを思い出すのです。

 翌朝、山端の自宅についたとき、母が迎えてくれました。玄関のたたきの上で手を取り合って、日本が負けて残念だと、二人して涙を流したのも貴い思い出です。 一夜、久しぶりの家に泊まりました。 夜、二階の窓から比叡山の方を見渡したとき、私は田圃の向こう側の家々に電気がこうこうとついているのを見て感激してしまいました。 「戦争は終わったのだ」、と言うことを如実に実感したのもその時でありました。

 次の日、ラジオが「大阪陸軍幼年学校生徒は、直ちに帰校すべし」と放送しているのを聞いて驚きました。 私はまた、迷彩服を身につけて千代田台に戻ったのです。 夜に着いて食堂に行ったとき、食卓の上に、我々が「現地自活」で作っていた「かぼちゃ」が、山のように盛り付けてあるのを見てびっくりしましたが、その、かぼちゃがまた、本当においしかったのが今でも思い出されます。しかし、戦友達の中には、二度と帰ってこない人達も、何人かいたのでした。

 少年兵 君やさしかりき また会はむと 
                涙して別れき 終戦の日に
                      (宮城、小城 某)
 
 敗戦に 陸幼生の 兄帰る 十四才は ひたすら寡黙 
                   (川崎市 高田正子)

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   (記事の一部は、拙ホームページより転載しています)

                ほのぼの こと 落合英夫(PGB01032)

         http://homepage2.nifty.com/hideochiai/


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以上の拙文に対して、コメントがありました。 それに対する私のResと共に、以下に記載いたします。

           記

ほのぼのさん

 拝読していて、胸がジーンとしてきました。

 お兄様のこと。戦争で亡くなったのは、兵隊さんだけではなかったのですね。そんな若さで。

 そして、ほのぼのさんが幼年学校へ。カデさんですね。

 幼年学校が、厳格ーーーということは理解できます。ただ「建設的」と書いてくださっていますが、この意味、もう少 し教えてくださいませ。

 本当にしみじみとしたお話、ありがとうございました。          (マーチャン)
 

 
 

ほのぼの 投稿日時: 2004-8-7 16:59

マーチャンさん こんにちは
Res. 有難うございました。

私め、偉そうなことを言ってますが、私が 大阪陸幼に在籍していたのは、昭和20年4月から8月末までの、たった5ヶ月足らずでした。 戦時下とはいえ、中学1年生まで、両親の庇護の下、凡々として暮らしていた私は、人格として全く未熟な子供でありました(当然かもしれませんが)。
 
幼年学校に入学したその日から、起床ラッパと就寝ラッパでの規律正しい生活がありました。 寝室は、14人が、わら布団を並べて眠るのですが、二人ずつが「戦友」ペアとなって何事にも協力しあい、また、一寝室には3年生(47期)の、いわゆる模範生徒の方が、我々と起居をともにしてました。 

この模範生徒の方から、朝な夕な(将校生徒としてのみならず)、まず人間としての、躾教育を受けたのでした。 躾教育は時に厳しく、時に優しく、未熟だった私を、育て上げてくれました。 今の私があるのは、そこでの躾教育があったればこそ、だと思っています。
 
午前中は授業があり、そこでは敵性語も習いましたし、午後は、不屈の精神を学ぶ体育の時間でした。 
食堂では、一つのテーブルに、47期生一人、48期生二人、そして、49期生3人が配置され、毎週その組換えがありました。 そこで又、食事の際のマナー、儀礼、会話の仕方、などなど これらも躾でしょうか、上級生の方から、こと細かく指導を受けました。
時には陸幼生活での、生活の知恵的なサジェッションなどもあり、食事の折りの和やかさは、楽しいものでした。

当時の軍人勅諭の中に、「忠、礼、武、信、質」が説かれてますが、軍人ならずとも、礼(儀)、信(義)、質(素)は、現在の生活基盤の中でも、大事な要素だと思います。 これらの基本について、私を根本から躾教育してくれた、陸幼での生活は、私の人間形成にとっては、きわめて建設的だったのです。

有難うございました。
  

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2004.08.01

誘蛾灯

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月一回近所の散髪屋に行く。商売柄とはいえ、散髪屋の主人は、話を合わせるのが巧い。ので、ついついこちらもよく喋り出す。喋り出すと、面白いもので、次から次へと、話題が広がっていく。今日は子供の頃の話になった。

子供の頃、家の周りは一面、田圃や畑であった。7月ともなって、田圃の稲が伸び出すと、あのころ、田圃のあちこちに、誘蛾灯が取り付けられた。大きな皿の中に油が入れてあり、夜になると、それに火が付けられるのだ。田圃一面のあちこちに、この誘蛾灯の赤い火が揺らめいている風情は、幻想的でさえあった。朝になると、火は燃え尽き、皿の中には、「飛んで火に入った夏の虫」達が横たわっていたものだった。今の子供達は、だから、「飛んで火にいる夏の虫」って、どんな情景なのか、きっと知らないだろう。稲の害虫をやっつけるための、昔の人の「幻想的」な智恵というものだろう。
それに比べると、今の時代の、よく野外レストランなどに仕掛けられている、青色の誘蛾灯は、まるで電気椅子のようで、食事をしていても、「バチ」と、無惨な音を立てて虫たちが焼かれるのは、いかにも殺伐としていて、気持ちよくない。

子供の頃、我々の仲間達は、いつも「わら草履」を履いていたものだった。靴はあったが、遠足の時か、なにか公式行事、式典の時、ぐらいだったように思う。わら草履は、近所の農家のおばさんが、一足、2銭ぐらいで売ってくれていた。学校に行くのも、素足にわら草履だった。校庭で遊ぶときは、大抵ハダシで遊んだ。それでもだいたい一週間ぐらいで、わら草履は駄目になる。とりわけ雨降りにあったりすると、わら草履はてきめんに崩壊した。
ある放課後、友達と氏神神社の境内の森に、ゲンジ(カブトムシ類のこと)を採りに行ったところ、素足の下でカタツムリを踏んづけてしまい、わら草履がカタツムリの粘液で、ねとねとになり、どうにも困ったことがあった。こんなつまらないことでも、「わら草履」という、単語一つで、当時のこと、その時の友達の名前、カタツムリ、結局その日ゲンジは採れなかったこと、まで、いろいろ思い出せるのだから、不思議なものである。
ゲンジ採りでは、木の幹の蜜の周りに、ゲンジならぬ大きなムカデが巻き付いているのを見つけたり、また、幹の木の穴から、突然、蛇が首を出したりして、吃驚したこともある。こんな時は大抵、収穫はゼロだったっけ。

京都洛北修学院の田圃では、当時、冬場は麦を栽培した。大麦もあったし、小麦もあった。大学に勤めていた頃、農学部の学生なのに、大麦と小麦の区別が出来ないのがいて、こちらが大吃驚したことがある。麦を栽培すると、その頃は必ず、黒穂病が出現した。穂の部分が黒く粉を吹いたようになるのだ。我々子供達は、麦畑の中に入って、その黒穂を摘み取り、それを友達同士で、擦り付けあったりして、遊んだものだった。

今の時期、修学院では、冬場に麦を栽培する畑は完全に消失した。だから麦踏みも、あの麦秋も見られない。5月の青空の下に見る麦秋の美しさ、とりわけ吹き来る5月の風に揺れ動く麦畑の風情は美しいものだった。スコットランド民謡「Comin 'Thro' the Rye」の微笑ましい情緒が解るためには、麦秋の雰囲気を知っていることが必須だろうと思う。
麦秋が終わると直ぐ田植えを始めねばならないので、この時期、農家の人たちは大変だった。田圃に水が入り、牛と鋤が入り、「こえつぼ」の肥が拡散注水式にまき散らされた。あれは豪快である。あの豪快さには人間国宝的なコツが要るのだろうと思う。が、今では滅多に見られない。惜しい気さえする。
やがて、今時見る苗より、倍ほど大きい稲苗を使って田植えとなる。田植え作業は、農家の人たちにとっては、当時全て、手作業だったから、実に大変な仕事だった。一家総出の農繁期、子供達も何かの手伝いをしたものだった。ただ、田植えはよそ目には、美しい光景だった。とりわけ、水の張った田圃一面に、早苗が植え揃った時、その情景は神々しくさえあった。水の張られた田圃の水面に、向かいの山が映る、緑が映る、そして夜ともなると、水面にお月様が映るのだった。拙文「蛙の合唱」はこのころの情景である(拙ホームページ)。
蛙たちが、一斉に鳴き出し、夜の水田に蛍が飛び交う頃ともなると、再び、誘蛾灯が据え付けられるのだった。

そして、今日の散髪も終わったのだった。

(2004.07.31)

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