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2004.03.26

スピーチ

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スピーチ

ただいま、ご紹介いただきました、私、落合で御座います。本日は、O君、そして新婦の、M子さん、ご結婚、誠におめでとうございます。 どうぞ、お座りになって下さい。

また今日のこの、佳き日を迎えられて、O家、O家、ご両家のご両親、ご家族、そして、ご親戚の皆様方、ただいま此処の、雛壇に座って見える、新郎新婦の晴れ姿をご覧になっては、新郎新婦お二人の、若かりし頃からのことなど、など、思い起こされて、誠に感慨一入の、ものがおありになることと、拝察いたします。誠に、おめでとうございます。

私は、新郎新婦とは、S大学の、応用生物機能学講座で、共に、学び、共に、遊んだ、いわば、共同研究者でした。何故かしら、私の方が、一年早く、S大学を、卒業というか、定年退職したのですが、こうして、同じ生物化学の研究室から、若いお二人が良縁を結ばれることになったことに、共同研究者であった者として、喜びに耐えないところであります。

今日は、この、お目出度い席でもありますので、新郎新婦、お二人の、大学院修士課程での、研究内容の詳しい説明など、やぼったいことは、致しませんが、一言で言えば、とにかく、お二人とも、最近話題の、最先端の、バイオテクノロジー、の研究に携わってられました。この所毎日のように、皆さん方も、新聞や、テレビなどで、いつも、遺伝子とか、クローンと言う言葉を聞かれることが多いと思いますが、新郎新婦のお二人は、遺伝子科学最先端の研究、研鑽を、充分に積まれたわけであります。


先ほど御仲人から、ご紹介がありましたように、新婦はすでに、若い世代の 教育現場で、ご活躍ですし、新郎も、近い将来、その教育方面で、活躍されることになっていると、聞いております。いま、日本では、若い世代の、理科離れが目立つから、何とかしようと言う雰囲気がありますが、このお二人には、子供達の、理科離れの心配をなくすように、一つガンバってほしいと思います。それは、難しいことではないと思います。或る意味では、簡単です。理科とか、自然科学は、覚える、覚えさせる教育ではなく、体験させる教育をすればよいのです。それも、教科書に書いてあるような、こうすればこうなる、こうなった。と言うような、当然の結果が出るものではなく、むしろ。失敗する実験の方がよいと思います。

私事を申して相済まないのですが、私の子供の頃、自分でなんとか、ゴム風船を飛ばしたくて、兄が使っていた、理科の本を見ると、水素を採るのには、水を電気分解すればよいと書いてあって、簡単な実験装置の絵が載っていました。それぐらいなら、すぐに出来ると、ビーカーの代わりに、台所からどんぶり鉢を借りてきて、乾電池の炭素棒を電極にした、実験装置を組み立て、胸ときめかしつつ、やおら、スイッチを入れた途端、「ぼっかん」と音がして、家中のヒューズがとんでしまったことがありました。実験は大失敗であったわけです。

父が会社からとんで帰ってきて、家の配線関係は直してくれましたが、その時、父は、少しも怒らず、水の電気分解は、直流でするもので、家に来ている電気は、交流なんだから、そのままでは電気分解は出来ないと説明してくれました。そのほかにも、いろいろと、家庭内実験で、失敗実験をやったものでした。が、そのお陰で、理科というものに、自然というものに、魅せられていった気がします。
新郎、新婦も、これからの、教育現場で、子供達を、魅せさせるような、チャーミングな、仕事を続けていってほしいと思います。理科教育は、自然科学の教育は、それが、やりやすいと思うのです。

何かとりとめのないスピーチになりましたが、嘗ての共同研究者として、先ずはとにかく、お二人が、同じ理想に向かって、今日出発されることを、心から、お祝い申し上げ、私のはなむけの言葉と致します。ありがとうございました。

                  (1995.5.3)


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2004.03.22

ほのぼのさん の トラベル

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伯備線沿線より「備中高梁」

 松江から岡山に出るとき備中高梁を通る。その二つほど前の駅、備中川面(かわも)辺りから左側の車窓から見るダンダン畑の石積みが、幾何学的に整然としているのに感心させられる。電車が備中高梁に入るや、その石積みの高さが、あたかも城郭の石垣のように高く,しかも毅然としてくる。しかしその上にあるのは城ではなく、豪壮な寺院である。それも一つや二つではない。沢山の寺院が東側の山裾に沿って軒を並べて連なっているのである。その最たるものは松連寺である。電車を途中下車しても訪ねたくなる。四月の中旬、備中高梁の桜の花びらが風に舞って、紺屋川の川面に浮かび、それらが皆、あたかもハシャギあって流れ下って行く暖かいある日、松連寺を訪ねた。

 備中高梁は周りを3、400メートルの山々に囲まれた小さな市であるが、その山々には、なんと自生の山桜の木が沢山あって、あちこちにそれらの花の彩りが見える。時あたかも、樹木の若芽が萌え出す時期でもあり、山肌は煙ったような薄緑色である。所々にレンゲ色の山つつじの開花も見いだされる。駅の観光案内所でもらった地図の道を探しながら、松連寺薬師院へと歩む。やせ我慢ではなく、備中高梁のお寺を巡るには、一人歩きの方がよい。
 
 駅前には、観光用に自転車のレンタルもあるが、自転車を利用するよりも、やはりやせ我慢ではないが歩いた方がよい。自動車が通る狭い道を地図を見ながら、自転車で走るのは、かえって気を使うことが多いからである。ゆっくり歩いて、ゆっくりお参りして、ゆっくり観光しても、4時間とかからない。道幅1メートルほどの路地を歩いて行くとき、思わず素晴らしい民家の花畑に感嘆することも出来る。そして松連寺の前に立ったとき、その石垣の素晴らしさもさる事ながら、デンと忠魂碑がそそり立っているのを見て私は一段と嬉しくなった。

    忠魂碑 素手にて洗う 男あり
          いかなる人ぞ この冬空に
   (四日市市、斉藤芳夫、 1993,2,6.)

 高台の本丸、本堂に挨拶してから、鐘楼に昇って、鐘をつく。鐘の音は山々にこだましながら、備中高梁のまちまちに轟き響き渡る。実に壮快である。石垣を城壁とすると、二の丸、三の丸には墓石が林立していて、これまた壮観である。人間は死ぬ。死ぬと墓に入る。墓には墓碑がある。人間は次から次から際限なく死んで行く。墓石も際限なく増えて行く。壮観ではあるが、この先どうなるんだろうなんて詰まらないことを考えながら、道を上る。

 この辺りいわゆる「山辺の道」である。道はよく整備されているが、とにかく墓石の林立である。定林寺から安産の神様壽覚院、そして樹齢300年の巨松の枝振りの素晴らしい巨福寺、何れも高層な石垣の上に鎮座まします。伯備線の線路に沿った武家屋敷の家並みを通り抜けると、小堀遠州の庭園で有名な頼久寺に至る。芝生に覆われた石段のある門前から見上げるこのお寺は、臥牛山を背景にしてなかなか堂々たるものである。電車の中からいつも気にしながら見上げていたお寺である。

 頼久寺の庭園、さすが小堀遠州、彼の晩年作の、京都知恩院の庭園などに比べると規模は小さいが、あの当時にあっての新奇活発な構想が伺える。何よりも借景としてなだらかにそびえる愛宕山の曲線が美しい。惜しむらくは、その愛宕山の頂上の鉄塔が目障りである。なんと無粋なことをするものかと誰でも思うのではないだろうか。「本当は庭の鑑賞に見えた方々に、お茶の一服でもお出し出来ればいいのですが、人手がなくてね」と入口のおばあさんが語っておられた。青海波を形づくったという「さつき」の刈り込み、これが花咲く頃は素晴らしいだろう、いや案外、丁度今ごろの方が波らしくて良いのかな、などと考える。

頼久寺を後にして池上家など300年の歴史があるという醤油醸造の古い家並を通り、紺屋川の縁に出る。川幅はせいぜい5メートルくらいの、しかしその両側に、丁度若芽の吹き出した柳や、花びらを今をせんどと吹き放つ桜の植え込みがあって、文字どうり高梁市の美観地区である。この所に高梁市の名物「ゆべし」を売る元祖遠州屋がある。これは安くておいしい。10個600円である。またこの近くに、どういう由縁があったのかは知らないが、同志社の創立者新島 穣が、この地に来て布教の末に信者たちの浄財で建てたという古いキリスト教会がある。入って見ると、ただ十字架がかかっているだけの質素なチャペルの中で、十数人の信者さんたちが、熱心に意見の交換、発表会をしておられた。今日は日曜日であったのだ。ここから駅まで歩く。よい一日であった。
               (1993,4,18)


 § K君への便りから
             平成8年5月20日

 五月の11日、12日と、近江長浜で行われた、Two Day March に参加してきた。
 当日、早朝に京都の家を発って、長浜城そばの長浜中央公園の会場に集合、ストレッチ体操などの後、ここを9時に出発する。この日は 20Kmのコースである。折しも NHK の大河ドラマで秀吉が放送されていることもあってか、長浜市はこの Two Day March のイベントにも大変な熱の入れようである。スタートの時には地元の中学生のプラスバンドによる応援演奏が激励してくれる。

 島根県からの参加者はさすがに僕一人であったけれど、驚いたことには遠くは宮城県、また九州は熊本県からの参加者もあって、大変な人数である。僕は65歳の身障者だぞと言う、馬鹿げた自負も持って参加していたのも事実だけれど、なんと80歳のおじいさんが颯爽と背筋を伸ばして参加されている。足の不自由な身障者が杖を持って、さらに腰の曲がったおばあさんの姿も見受けられる。 僕のつまらぬ自負は完璧に打ち砕かれた。皆の顔つき、そしてスタイルは今日のイベントを嬉々として待ちこがれていたという雰囲気であった。

 初日の20 Km のコースは山辺の道を、たとえば石田三成出生の地などを巡りながら歩く。僕はたまたま先頭集団に付いたのだが、なんと皆の歩く速度の速いこと速いこと、まるでオリンピックの競歩のようである。皆に聞いてみると、しかしこれは先頭集団の特異的現象であって、主催者はもっとゆっくりと歩くことを楽しんで下さいと言っているとのことだ。
 
 よく整備されている琵琶湖沿いの道、そこからそれて新緑の山辺の道へと入る。田植えが終わったばかりの水田の中の一本道、今まで知らなかった人たちと、歩くことだけを通じて話が弾む。どちらかというと、女性群はグループでの参加者が、そして男性は、僕のようにリタイヤしたが、友達はまた再就職していて一緒には来れないから一人で参加しているという、歩くことの好きな御仁が多い。若い夫婦づれ、更に年輩の夫婦連れ、子供連れというのは見ていてもすがすがしい。

 初日同宿の御仁は、日本歩け歩け協会大阪支部長の我らが I 氏の事も良く知っている、歩け歩け協会会員であり、お陰で話が弾んだ。聞けば今や日本全国毎週のようにあちこちでマーチが行われているという事だ。来週は福井県の三方五湖でやはり Two Day March が有り、その御仁は来週も参加するのだという。僕も早速歩け歩け協会に入会しようと思った。

2日目は竹生島の望める湖の辺の道、そこから姉川沿いに伊吹山に向かって歩く。姉川の古戦場、遥かに小谷山がかすんでいる。姉川の橋を4つも渡り、鉄砲の「国友村」にはいる。ここは前から一度来たかったところだった。静かな美しい村だった。折しも「愛鳥週間」の始まった日であってか、長浜の小鳥達の囀りもすばらしかった。天も地も人も、すべての自然が素晴らしい2日間であった。2日間、それぞれ 20 Km、「40 Km 完歩賞」というのをもらって京都に帰ってきた。小学校の運動会でもらった賞状のように嬉しかった。

      新しき 靴を購いたり 日本の 
               涯てまで歩けそうな 青空
      谷村修三(吹田市)

 さて、いずれ近づいたらまた電話はするが、今のところ6月7日の夕方に新幹線で新横浜に行くようにする予定なので、夕食を一緒にしながら話が出来たらと思う。


 § 倉敷ツーデーマーチ

 倉敷ツーデーマーチは、2日とも、好天気に恵まれ、
延べ20089人の連中と共に、吉備の春を満喫しつつ
25キロ、25キロを完歩してきた。松江をでてから、
松江に帰るまでの歩数は、実に80000歩であった。

 健康で歩けることの幸せを 胸一杯に吉備の春
  英夫

 2万人の中には、足の不自由な人、90歳のおばあさん、
と、こちらが激励される人たちが多い。同じ島根県から
参加していた小学校の女の子は、なんと、初日40キロを
2日目は20キロを、踏破していたのには、吃驚させられた。
その子のゼッケンには、「今年は泣かずに歩きます」と
書いてあった。
 ふとっちょのお姉さんのゼッケンには、

 歩けども歩けども吾がおなか へこまずじっと腹を見る

というのがあって、喝采を浴びていた。

 倉敷から帰ってきたら、庭のチューリップが大きく
なっているのに吃驚した。松江も春です。
皆さんの健康と幸せを祈っています。
    今日も好天の松江から、 英夫でした。
ではまた、 (^.^)/~~~
                      (2000.03.13)
 

 § 出雲路マーチ:

 11月の14日(土)、かねて予定されていた第2回目の「出雲路マーチ」があった。参加者は、松江市の、風土記の丘に集合した。9時半スタート、20キロコース組は、熊野大社を目指す。この日は、山陰には珍しい大快晴、秋空に雲一つない。同じ日に加古川ツーデーマーチも行われるので、と、言うこともあるのだろう、東京の本部からは、役員の誰一人来ていない。それだけにここには、いわゆる「手作り」の良さがある。本部からは来ていないが、遠く九州や関東地方からの参加者もあって、会はいつものマーチングと同様、にぎにぎしい。

 いつもの事ながら、第一集団は速歩組である。久しぶりに、大汗をかきながら、歩む。時速6キロぐらいか。この日参加した小学生の男の子は、更に速い。錦秋の、と言うのには一寸早い、山間の道を歩む。空気が美味しい。アスファルト道路の上には、冬眠前の蛇が出てきて、日光浴をしている。ライフル射撃場など、思わぬ所に、思わぬ施設が出来ていて吃驚する。

 熊野大社には、11時半についた。意宇川の畔で、昼餉の握り飯を食う。これがまた、実に美味い。神社の楓は紅葉し、銀杏の黄色も、日に映えて黄金のように美しい。アメリカ人の団体も観光に来ていて、ここの神社、結構、人出は多い。今日は、七五三の前日なのだ。可愛く着飾った女の子に、外人さんがカメラを向けている。

 12時、熊野大社を出発して、一路、意宇川にそって、風土記の丘へと帰る。この意宇川は清流だ。川には、大きな緋鯉真鯉が、悠々と泳いでいる。この川の源流は、神話の山、天空山(天狗山)から発しているのだ。帰り道は、連れも出来て、話しながらのうちに、2時前にはゴールできた。このとき、24,928歩だった。この夕、快食し、この夜、快眠した。
(1998.11.17)

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洛北八瀬の遊園地

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八瀬遊園地

小学校一年生の5月頃だったか、入学最初の遠足は、八瀬遊園地であった。八瀬遊園地へは、皆でわいわい言いながら、大原街道を歩いていった。 帰りだけ叡山電車に乗った、様に思う。八瀬へは家族で行き慣れていたけれど、みんなと行く遠足は格別に嬉しいものだった。

 昭和12-13年頃の八瀬は、京都市内での、ちょっとした遊園地であった。小さな池ではボート遊びが出来、規模は小さいがサンショウオの入った水槽のある水族館があり、猿や孔雀のいる動物園があった。広げられた孔雀の羽根の美しさ、猿山の猿の動きなどいつまでも見飽きないものだった。水力発電所の建物のとなりには、昆虫博物館があって源氏蛍と平家蛍のイラストが書いてあった。発電所からの水の流れの中に、大きな鯉が何匹も、悠々と泳いでいたのも、新鮮な思い出である。発電所に引かれてきた水の一部は、大きな滝となって落下しており、夏の夜などはこの滝の周りで、多くの人達が、涼んで居たものだった。こんな時、よく相撲大会も催されていたのである。

    ♪♪ 高商の相撲の選手に勝てるなら  
          やがて西から満月が ホイホーイ! ♪♪

これは曽って岩倉にあった、同志社高商の相撲部の応援歌である。私の子供の頃、夏には、八瀬の遊園地に土俵が造られていて、そこで高商と何処かのチームとの相撲大会があり、私達家族で見物に行った覚えがある。あの頃は、父がまだ「京都電燈株式会社」に勤めていた関係からか、わが家のメンバー全員に、叡山電車の優待パスがあったこともあり、何かというとよく全員で、八瀬遊園地の催し物を見に出かけたものだったのである。
 まだ私が小学校一年生の夏だったと思うが、高商の相撲の選手が、取り組みに勝つ度に、上の応援歌が歌われ、それを何度も聞いている内に覚えてしまって、それが今でも思い出せるのだから、子供の頃の記憶とは凄いものである。高商の選手が負けたときには、どうしていたのかは覚えていない。

この遊園地からは、ちょっと不安げな吊り橋が架かっていて、それを渡ると、プールへと行けた。
 
当時の八瀬には、俗称「大人のプール」と「子供のプール」」があり、やはり夏の昼間などは多くの大人や子供で賑わった。大人のプールの方は、有料で水もきれいであった。子供のプールの方は要するに大人のプールの二番煎じで、皆の間で「ションベンプール」と言われていた。なかなか現在の都会のプールのようにクリーンではないけれども、しかしまん中に噴水があったりして、安心して遊べる子供の練習プールとして、結構皆に人気があった。

 プールからの坂の上にはローラスケート場があり、遊び疲れると、ここの熱いコンクリートの上に腹ばいになって、よく甲羅干しをしたものだった。プールの東側を流れている高野川の水は清く、所々深みの有る流れの中でも良く泳いだものだった。泳ぐと言っても、特別に指導者や先生がいるわけでもなく、皆それぞれに我流で泳ぎを楽しめ、夏休みを楽しんでいた。その時に皆の拠点となっていた、流れの途中の大石は、60年後の今も残っている。私なんかの水泳は、全く八瀬の川原で覚えた落合流のものである。競泳には向かないが、軍艦や輸送船が沈められたとき、救命艇がきてくれるまで、ゆっくり泳いで待っていられると言うタイプのものである。呵々大笑。
 
 先日京都に帰ったとき、昔を懐古しながら、家から八瀬まで散歩した。賑やかだった八瀬遊園地の姿は、その片鱗すら残っていなかった。が、吊り橋と八瀬の駅の姿、格好は60年前とちっとも変わっていなかった。全く不思議な駅である。
                     (1995,10,06)

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狸谷のお不動さん

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洛北狸谷の お不動さん
 
 小学生の頃、それもまだ幼い頃だったが、よくお袋さんや近所のおばさん達、その子供達と一緒に、一乗寺の狸谷不動さんへお参りに行った。お参りではあるが、子供達にとっては、ちょっとしたピクニックみたいなもので、いつも楽しみにしていたものだった。
 山端の我が家から、お不動さんまでは、子供の足にしては、いささかキツイものだった。が、修学院の鷺森神社を抜け、一乗寺の葉山観音を通り、八大神社の前を通り過ぎて不動さんへの山道にかかる。私が子供の頃は、一乗寺界隈は、時にはレンゲ畑が広がり、時には稲穂が波打つ一面、田圃ばかりであって、詩仙堂以外、今頃見るような大きな屋敷は全くなかった。お不動さんへの登り道も両側に雑木林が連なる普通の山道だった。

 その山道に入って、少し登った右側に、粗末な休憩小屋があった。実はその小屋の裏側に回ると、そこに、蟻地獄を見つけることが出来るのだった。子供連中はそれを見つけると、蟻地獄の中に、捕まえてきた蟻を入れてみたり、「えさ」もどきのものを与えてみて、ワイワイガヤガヤと遊んだものだった。もう65年以上前のことだが、あのことは、今でも思い出せるのだから、不思議なものである。が、一緒に遊んだ、あのころの子供仲間も、今では皆、亡くなってしまっている。

亡き友の 家の前道 通り過ぐ ふるさとの道 寂しかりけり

 当時、不動さんへの山道を登り詰めると、岩屋の中に黒ずんだお不動さんの大きな石像があった。今見るような立派な社務所が有るわけでもなく、祠があるのみだった。それでもお不動さんにお参りしてから、今度はさらに奥手の細い山道を登った。七曲がりほどすると、小さなお堂がある。奥の院である。その前はちょっとした広場になっているので、そこらあたりに座って、みんなで、持ってきた「おにぎり」などを食べるのだった。ワイワイガヤガヤと、賑やかな近所の人たちや、やんちゃ坊主達のそれは、「至福」の時だった、のである。

 
さて、京都に還ってきてから、すっかり立派になった狸谷不動さんに出かけたことがある。参道の周辺はすっかり変わり、道は舗装され、両側には豪邸が並んでいる。年のせいかもしれないが、この舗装された道の勾配が徒にきつく、直進が難しいので、斜行して登っていく。やがて石段の連続がある。こんな長い石段は、昔は無かったのに、と思いながら。途中に立派な七福神の石像群がある。昔活躍していた、花菱アチャコや浪速千栄子など、大阪の人気役者の寄進碑などを見かけるのも懐かしい。

 急勾配の石段を登り詰め、拝殿の奥に鎮座まします、金ピカになった、お不動さんの像に挨拶する。拝殿の前もちょっとした広場になっていて、ここで祭祀が行われるのだろう。さてこそと、奥の院への道を登ると、今はこの道が四十八カ所の童子像を巡るようになっていてそれなりに整備されている。ともかく登り詰めて、奥の院に着く。一坪ほどのお堂が昔のままの姿で残っている。此処は変わっていない。
 広場に朽ちかけた説明板があって、標高301メートル、瓜生山城址と書いてある。城址だったんだ。昔を思い出しながら、独りで三角おむすびを食べていると、子供連れのファミリーが登ってきた。早春の日差しが心地よくて、ファミリーもここで昼餉となった。この雰囲気は昔と変わらない。いいものだ、と、思う。

 犬を連れて散歩に登ってきた人に尋ねると、ここから、北白川へと抜けるコースがあるというので、独りその道を下ってみた。成る程ちょっとした森林浴の道である。また、今まで知らなかったが、この道は、むかし此処で平安京の建設のための石切場の道であったという。その「清沢の石切場」と言われる古跡が残っていた。細工途中で放棄されたらしい花崗岩の台座が転がっている。さらに下ると、なんと、こんな処にかの白隠禅師の旧跡があった。肺を患った若き日の白隠禅師が、ここで白幽子と名乗る仙人によって、その病を治癒されたという旧跡である。私には、新しい発見であった。
 
この辺りに来たとき、山中より、朗々とした詩吟の声が聞こえてきた。その漢詩は、かの有名な広瀬旭荘の「桜祠に遊ぶ」であり、朗詠はなかなか難しいのだが、今聴く吟詠は実に巧く実に素晴らしい。ので、しばらく山中に座して、その吟を聴いていた。

♪♪ 花開けば万人集まり 花尽くれば一人(いちにん)無し
    但だ見る双黄鳥 緑陰深き処に呼ぶを ♪♪

道は最後にバプテスト病院の横に出た。バプテスト病院は、娘の誕生の場所でもあるし、また、初孫の誕生の場所でもある。
この日のソフトウオークは、いろいろと懐かしく快適であった。
     (2003.03.23)

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2004.03.12

都々逸の創作を楽しむ

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昔々の、私の創作都々逸から:
葛西三保先生について習っていた頃、同人誌「なにわ・おむろ」に投吟したものを、引っ越し整理の機会に久しぶりに発見しました。 ので、以下に列挙してみました。(ただし順不同です。) ちなみに当時の私の雅名は ひで緒 でした。

紅い紅葉の 葉っぱを一つ 胸に飾った 一人旅

 夢ははかなく おぼろの月に 今月今夜も 寄る屋台
 
 今朝の新聞 三度も出して 一寸気になる 名の女

 小さな贅沢 少しは残し スイートホームの 青写真

 何にもなくても 五月の空に 広がる二人の 青写真 

 一郎・大輔 今年もふえて 団地の窓の 鯉のぼり

 二夜会わない 貴女に会えて 胸のときめき 言えぬ僕

 始めも終わりも 二人の愛の すべて知ってる 辻地蔵 (客)

 あの娘ノーブラ フタフタ揺れる 見てる僕らの ガマン会

 五客二つと 肩叩かれて なにわおむろに 惚れなおす

 頭越しやら 肩越し背越し 見た顔もある ストリップ

 親も子供も 受験の春は じっとガマンの 針むしろ

 赤子のオナラに ワッハハハッと 笑う姑も 湯気の中

 去年の願いが この春かなう あなたと二人で 描いた絵馬

 行きはよいよい 帰れば恐い 昔の女の 店開き (客)

 左遷の苦みを 豪気に笑い 御栄転する 支店長

 消える日本が ここにもあって 枯れ木ばかりの 永田町

 来ないウグイス 待つ気も消えて 雪と遊んだ 寒の梅

 痛い手術の 辛さを消した 今朝の母御の 蜆汁

 巣立った子供の 座った場所で 話し相手は ペルシャ猫

 今朝の女房の 猫なで声が 肝に障るぞ 月給日

 あそこの家でも 年寄りだけが 祝う日の丸 朝ぼらけ

 どこえ行くのか 日本丸は 放漫国会 馬鹿船長

 若い頃には 続いた女難 今じゃ自慢の 種となる

 そんな気でなく 捨ててた種が 春を教えて 花と咲く (客)

 夕べあんなに 夢中にさせて 今朝はすまして 道を説く

 昔の女に 久々会って ほくそえんでる 今朝の夢

 卒業前から 嬉しいうわさ 三年経っても 未だうわさ

 指切りげんまん あの秘め事は 今日の思い出 しまい風呂

 訃報悲しや 私もいずれ 都々逸作って 順を待つ

 百寿白寿を 二人で迎え 世界旅行と 馳せる夢

 親の心は 静かに朱く 路端地蔵の よだれかけ

 そっと濡れてる 紫陽花あって 相合い傘の とまる路

 太平洋を 雲間に眺め ハワイの初夜へと 飛んでいく

 口説いて欲しいに 口説かぬ人と 功徳の無いのに 口説く人

 俺の人生 あんなじゃないと ぐっと見上げる 雲の峯

 金はなくても 希望と夢に 草笛吹いてる 二人づれ

 三つも並んだ 魚の目退治 おっかなびっくり 下宿部屋

 グラマも柳も どちらも好きで 俺の多趣味は 親譲り

 芝生の緑に 二人で座る 今日は黄砂に 霞む城

 娘も口紅 さすよになって 独りに廣い 庭の草 (客)

 相合い傘にも 哲学あって 甘いばかりで ない小径 

 垣根の外に 色ずく柿の 今日もまだある 茜空

 越す気でなかった 一線越して この頃気になる 月の道

 三三九度の 盃終えて 今更いやとも 言えぬ旅

 破れ草履で 遊んだ友の 訃報見つけた 夕刊紙

今度のフェリーで あの娘が還る 婿さん候補の 多い島

唇重ねた あの日のことを 思い出させた 遠い雲

 入った雲から また出た月が 明るすぎると 言う女

 寝入った夫の 平和な顔に さっきの寝言が 気にかかる

 旅の昼餉の ケンチン汁に ふっとかすめた 母の顔

 あの日従妹と 弁解してた 二人が押してる 乳母車

 出張帰りの 荷物もおかず 蕾数える 梅の鉢

 思わぬ陽気に 出てきた散歩 抱えたコートが 重たそう

ポポカポカポカ ポカポカポポカ ぽかぽか陽気の 善男女

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伊勢物語

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 あれは兄(規秀)が小学校六年生、私が三年生の時だった。修学院小学校の六年生は、その頃、一泊泊りで、伊勢神宮に修学旅行に出かけるのが恒例になっていた。兄もそれをすごく楽しみにしていたのに、急病でもあったのか、肝心の日に兄一人が参加できなくなってしまった。
 
 兄の悲嘆ぶりは尋常でなく、私の両親は、それでは夏休みに家族で「お伊勢さん参り」に行くことを約束し、兄を宥めたのだった。そのお蔭で、私ら家族五人は、昭和15年の夏に、家族旅行をすることが出来た。思えばそれが、私達家族全員による最後の旅行となってしまったのだった。
 
 8月15日(木曜)の朝早く、京都から汽車に乗り込み、2時間20分をすべて興奮の内に過ごし、やっと宇治山田駅に降り立った。国定教科書に載っていた写真通りの宇治橋に感激し、五十鈴川の清水で、口をすすぎ、顔を洗った。緊張の内に内宮、伊勢大神宮にお参りした。大事に持ってきたスタンプ帳の最初のページに大きな朱印を押してもらった。少なくとも私にとっては、ものごころ付いてからは初めての、家族揃っての伊勢旅行に、常になく、うきうきしていたのを思い出す。
 
 続いて、外宮にお参りし、その日の泊まりは二見が浦に近い「伊勢や」という大きな旅館であった。「伊勢や」は表は旅館通りに面していたが、中に入ると、裏は海岸に向かって開かれており、部屋からは京都の家では見られなかった海が見渡せて、兄弟三人は皆、声を出して喜んだ。裏の海岸はコンクリートできれいに整備されており、それに沿って行くと、二見が浦に通じていた。私達五人は、その足で、二見が浦、天の岩戸などを巡り、そこにまつわる神話を、本気になって聞いたり、見たりしたのだった。その頃の神話は、私達子供にとっては、そのまま実話でありそれだけに印象的で、ロマンチックであったと思う。
 
 宿の玄関近くには、ピンポン台が置いてあり、私と兄は早速に、木のラケットでピンポン玉を打ち出した。珍しくて、とにかく始めての遊びなものだから、二人は、はしゃぎながら、玉を追って大声で走り周った。急に声が静かになった。ピンポン玉を壊してしまったのであった。二人は、ひそひそとも話せず、玄関に挨拶もせず、知らぬ顔して部屋に戻った。あのことは、今思い返しても、まずかったなアと思うことの一つである。
 
 この日の夜のメニューは「にゅー麺」であった。当時既に、いわゆる非常時で、旅館の食事も代用食であった。子供達は代用食が好きだったし、喜んで「にゅー麺」を食べたものだったが、隣の団体さんの部屋では、一人の男性が、「私は、にゅー麺は、大嫌いで、とても食べられないから、何か他のものにしてくれ」と言うことで旅館の人と大論議しているのが聞こえてきていた。

翌朝は快晴であった。二見が浦へ皆で日の出を拝みに行った。日の出を見ての帰り道、他の旅館のお客が、当時では珍しいカメラを持って、下駄ばき浴衣姿で走って行った。あの人は多分、日の出のシャッターチャンスには間に合わなかっただろう。私達は日が高くなってから、海岸の近くで、家族全員の記念写真をとった。太陽がまぶしくて、妹なんかは横を向いて写ってしまったが、一家揃っての貴重な思い出の写真である。

 私が島根大学に来てから、7年後、伊勢市を会場にして、日本農芸化学会関西支部・中部支部合同大会があった。島根大学は、西日本支部所属であって、本当は該当しないものであったのだが、私は、京都府立大学のK教授と打ち合わせて、参加発表し、行動を共にした。学会発表後、二人で「お上りさん」宜しく、二見が浦を訪ねた時、「伊勢や」を探した。昔の侭の姿でそこに「伊勢や」は存在していた。玄関にピンポン台こそなかったが、無性に懐かしく嬉しかったのを覚えている。その時、二人で街の一膳めし屋に入り、ケンチン汁を食べた。 

  旅の昼餉の ケンチン汁に ふっとかすめる 母の顔   
                          (ほのぼの)

 その後二人は、紀州を巡って勝浦に遊んだ。那智山青岸渡寺、那智の御瀧を拝し、更に白浜の京大臨海実験所に、旧友のA氏を訪ねてから京都に帰った。よい旅であった。昭和 52 年 10 月 2 日のことであった。 (1995,09,22)

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ほのぼの亭

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 最初に、ほのぼの亭での現代どどいつの創作を紹介しましょう。
 先ずは最初に、私の好きな、そして皆さん方も御存知のものから、
 凡選 どどいつ です。

 先ず歴史上の有名人の作品から:

 高杉晋作:
 苦労する身はなにいとはねど 苦労し甲斐のあるように
 三千世界のカラスを殺し 主と朝寝がしてみたい

 河井継之助:
 九尺二間に過ぎ足るものは 紅のついたる火吹き竹

 頼 山陽
 お月様さえ泥田の水に 落ちてゆく世の浮き沈み

 陸奥宗光:
 末は袂を絞るとと知らで 濡れて見たさの花の雨

 都々一坊扇歌:
 たんと売れても売れない日でも 同じ機嫌の風車

 神戸節より
 思ひきれきれあのきりぎりす 思ひきれきれきれと鳴く
 ほかへ心を移してみても いつかおまへのことばかり

 須田 栄:
 閉めずに寝たのがこっちの不覚 月に見られたすだれ越し

 平山廬江:
 花は散り際男は度胸 命一つは捨てどころ
 降りの強さに閉め切る雨戸 後は無口にほてる顔

読み人知らず:
 知らぬ顔して風鈴だけが 知っていそうな今のこと
 わたしゃとうからその気でいるに あんた勝手に口説く人
 ことりことりと 小鳥と小鳥 ことりことりと 小鳥かご

 最後に ほのぼのさんの一章
 (都々逸は一句と言わないで、一章、二章と数えます)
 今も人生不可解のまま 落ちて散ってる滝しぶき (華厳の滝にて)
 このヒューマニズムに満ち満ちた「創作どどいつ」を、
  一緒に楽しみませんか?

「どどいつ」 を創る
 どどいつ の基本形は、「七/七/七/五」の口語のポエムです。
 この、「七/七/七/五」の文型は、日本語の基本的文型でもあり、
 普通に喋っている言葉が、そのまま、どどいつ調に
 なっていることが、しばしばあります。

 例えば、
 立てば芍薬座ればボタン 歩く姿はゆりの花 
 などもそうですし、何の抵抗もなく聞き流せます。
 日本の、多くの民謡、例えば、佐渡おけさ、草津節、などなど
 みな、どどいつ調なのです。

 「七/七/七/五」の文型は、さらに詳しくは、普通
 「三・四/ 四・三/ 三・四/ 五」
 となるわけです。
 上にあげた例のすべてが、そうなっていますね。

 日本文学、とりわけ詩歌の中で、俳句や短歌に比べて、
 どどいつは、これまで、庶民的なウタ

 ゆうべ意地悪した好い人が 朝の鏡の中に居る (良一)
 おかめひょっとこ似たもの夫婦 好いとこ探して惚れている

 と、思われてきました。確かに、それも多かったのですが、
 それだけに現場の人情の機微に触れるものが多く、
 現在では、そのようなヒューマニズムは保ちながら、
 口語型の新しい日本の詩歌として、
 「現代都々逸」を創作する風潮が、高まってきているのです。

 野菊の勲章みんながつけて 一人ころんだ茜雲 (三保)

 和綴じの歴史に閉じ込められて 慰安婦老いてく世紀末 (鈴木節子)

 絡み付いてる見事な蔦が 瀬音聞いてる木曾の宿 (石原梅学)

 流れさらさら若葉が映える 向こう岸にも二人連れ(ほのぼの)

 三角ベースで遊んだ友の 訃報見つけた朝刊紙 (ほのぼの) 

 あんなに大きく描いた夢を 消して惜しげもない余生 
 (三保さんの作品を参考にして、ほのぼの) 

濡れた思い出紫陽花青く 梅雨の晴れ間の墓参り 

 皆さん方もご一緒に、さあ、創ってみましょう。

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2004.03.10

ゴールデンウイーク

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世の中、ゴールデンウイークになった。
アルバイトに行っている学校も、
公式に臨時休業である。
日本国中、ゴールデンウイークだ、と言う。
年金暮らしの、定年組の、私なんかは、
毎日が、ゴールデンウイークのようなものだが、
それでも、やっぱり、世の中の、
ゴールデンウイークというのが、気になるのです。
昔の天長節、四月二十九日、みどりの日の今日、
松江も、空は「晴れ」わたっています。

空が晴れ渡っていると、私はなぜかしら、
落ち着かない。
太陽が好きなのである。
それで、握り飯をリュックに詰めて、
ぶらりと「歩き」に出かける。
妻も一緒に行きたいというので、
「ピクニック」ということになった。

ガラガラの田舎のバスに乗って、
日本海の漁港の町まで走る。
恵曇(えとも)というまちである。
面白い名前のまちだ。
ここから海岸沿いの山道を、
歩く。
日本海は広い、
今日の日本海には海と空の境がない。
その海は静かで、道から見下ろす海面は、
太陽に映えて、
まるで、縮緬のようだ。
山側、その新緑の、
樹木それぞれの、新緑のモザイクが
美しくて、
本当に美しくて、ため息が出るほどだ。

こんなに美しい自然があるのに、
小鳥たちも、おおらかに
さえずっているというのに、
そしてゴールデンウイークだというのに、
人っ子一人居ない。

この大自然を自分達だけで、
独り占めしているなんて、
なんという贅沢だ。
海の見える坂道に座って、
握り飯を食おうと思ったら、
握り飯も、海が好きになったのか、
坂道を、ひとりで、転げていった。
二人で、大自然の中で、
大笑いした。

この日、さらに、日本海を見下ろしながら、
魚瀬まで、歩き、
そこから「才の神」峠を越えて、
静かな、なだらかな田舎道を
オオルリやヤマガラの
ラブソングを聴きながら、
宍道湖畔の「津の森」まで歩いた。
27,000歩だった。素晴らしい一日だった。
           (1997,04,29)

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2004.03.09

ウオークの楽しみ

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四万十川ウオーク

4月の3,4日と、四国は四万十川の上流、下流、リバーサイド フルウオークを、完歩してきた。2日間で50キロを完歩出来た。嬉しかった。

   四万十の フルウオークや 初つばめ   

高知、中村市といえども、朝晩は結構寒いくらいだったが、お蔭で快晴に恵まれ、吹き来る風は、ウオーカーには涼しくて心地よく、四万十の清流と、その河辺に咲く満開の桜、菜の花畑、そして新緑の道を、全国の同好の友と、人生を語り合いながら、完歩したのだった。四国の、いや今や、日本の残された清流の佳姿をエンジョイし、感激したのだった。
 フルウオークへの参加者は北海道からの同好者を加えて、延べ2000人、地元中村市の人達の、温かい配慮のお陰で、素晴らしい2日間であった。中村市の皆さん、そして、同好の皆さん、素晴らしい思い出を、有難うございました。


沖縄ツーデーマーチ

ユートピアならぬサントピア 沖縄・名護市での「やんばるツーデーマーチ」に参加した。
12月11~12日の両日、沖縄名護の空は爽快に晴れ亘った。当局の発表では、参加者は、北は北海道から南は台湾まで、のべ1671人とか、当日の飛び入り参加者もあるから、約2000人近い人達のマーチだった。沖縄からの参加者の中には、アメリカ人も多く、まさに国際的なマーチである。ちなみに島根県からの参加者は、私一人だった。
「この日名護は快晴、沖縄の気は清明にして、陽気はなごみ、花の朱には胡蝶の群れが舞う。林間に蝉の声すら聞く。」のには歩いていて、驚いた。「まさに冬は沖縄をこそ楽しむべし」と思いつつ2日間で、50キロを歩いた。歩けた。自己満足かも知れないが、つとに嬉しかった。またウオークの途次、全国からの歩友、そして、地元名護の人達との、心温まる語らいに「生の歓び」を感じたのだった。
共に歩いたウオーカーの皆さん、そして、地元沖縄・名護のサポーターの人達、どうも有難う御座いました。
そして来年、2000年、新しいミレニアムの始まりの年、私は、又、歩きたい、と思う。
(1999.12.17)


「比叡山を越えて近江坂本に至る」の記

先日(3月26日)、たまたま京都に帰省している間に、叡山電車のポスターで、『ファミリーハイク:比叡越え曼珠院もたて山コース:健脚向き』を、見つけ、急遽参加してきた。集合は、小生の氏神さあんでもある修学院の鷺森神社、ここは京都のこととて、古い歴史のある名刹である。子供の頃、毎朝欠かさず参拝したものだった。
 集合9時、神社の境内が、参加者で、イッパイに溢れた。皆で、軽く体操した後、それぞれマイペースで、曼珠院にむかう。ここも、皆さんご存じの、名刹だが、今はその前庭のコケがとりわけ美しい。紅梅、白梅、こぶしの黄色い花が満開の武田薬草園の横から、山に入る。この道は、平安時代から、都の善男善女たちの、比叡山無動寺への参詣道としてあったもので、この道の歴史も古い。が、今は細くなっている。現在の林道ルートを取り、瓜生山を目指す。瓜生山には、狸谷不動さんがあって、ここにも、よく、お袋さんと、お詣りに行ったものだった。眼下に洛北の街並みが、懐かしい。
瓜生山コースより、いよいよ無動寺コースに入る。尾根道を一人づつ、一列になって進む。樹間から、大比叡が、「あれ?」と思うぐらいに近くに見える。石鳥居のある四つ辻に至る。このあたり、昔の無動寺参詣ルートは、今は、東海自然歩道になっている。白川の源流を渡り、再び登りになる。
と、言うほどもなく、ドライブウエイに至り、その下のトンネルを抜けると、すぐに、弁天堂であった。ここまで来ると、山は矢張り、雪降りとなった。11時40分であった。寒い中、冷たい昼飯を食う。昨日買ってきた「とらや」の一口羊羹を食べたら、元気が甦った。あれはちょっと疲れたとき実に好いものだ。

じっとしていると、寒いので、すぐに歩き出す。この辺り、琵琶湖の景色が美しい。無動寺明王堂、大乗院を経て、 坂本ルートを下る。途中に、紀貫之の墓への脇道がある。
ここで皆と別れて、一人、坂本の日吉神社へと向かう。この道は、阿闇梨さんが千日回会で、回られる道でもある。坂本は、石積みの美しい町である。ジャスト1時、日吉大社に着いた。

小生の幼い頃、両親に連れられて、一度来たことがあるようには思うが、確かではない。とにかく、60何年ぶりに、お参りさせてもらった。ここに、平安、平家の時代、僧兵達が都に強訴に繰り出したとき、使ったという、重さ500貫(2トン)の御輿が7奏展示されている。この御輿を担いで、僧兵達は、比叡越えして、都へ繰り出したのだから、彼らが実に強力だったかをを想い浮かばせる。
下山した頃から、空は晴れ上がり、気分は実に爽快であった。
この日、万歩計は、25.430歩だった。
(2000.04.03)

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昔教授ありき

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 京都大学に入ったとき、さすがは京大教授だなと感激する素晴らしい先生との出会いがあった。これらの先生方から受けた数々の薫陶と、精神的影響はその後の私の人生の基盤となっている。一方、「何じゃこりゃ」と思わせる先生方も、たまにではあるがおられた。「何じゃこりゃ」先生の存在は、あれ位なら私にだって京大教授は勤まるぞ、という変な自信を私に与えて下さった。
 授業に本当に熱心な先生がおられた。一方、「昨晩遅くまでお客があったので」と言い訳をしながら、自信なさそうに講義する先生もおられた。その先生が使われている英書の「種本」を購入して、数人の学友と、2階の下宿部屋で種本購読会を開いた。先生の和訳は間違っていて、講義は嘘であることが分かったときには、皆で喝采した。
 さて自分が、まがりなりにも国立大学の教授を勤めるようになってから、「あんな風にはならないでおこう」という気持ち、目標というか、プレッシャーがいつもあった。それでも、いま振り返ってみると、講義の中で嘘をついたことが何度かある。学生さんに「何じゃこりゃ」と思われたことも何度かはあるのではないだろうか。
 実験の失敗は、あるいは認識の間違いはそれに気づいたときに、自分の考え方を修正すればよい。しかし、終わってしまった講義の間違いを修正するのは案外難しいものである。一年前の講義の間違いなどは直しようが無い。次の時には間違い無くやろうということで終わる。だから学生さんたるもの、教室での先生の講義がすべて、「絶対普遍の正論」なのだとは簡単に思ってはならない。常に批判考察する心が必要だということである。
 何か自分の失敗の「すりかえ」みたいになってしまったかな。

 私が、無給の研究生として在籍していた、京大医学部医化学教室から、岡山大学農学部の助教授としての赴任が決まったとき、恩師の早石 修先生からはなむけにお言葉を頂いた。「あなたが実験好きで、勉強熱心なのは分かる。しかし正直言って、あなたは秀才ではない。ましてや天才でもない。ただの凡人である、ということを忘れてはいけない。凡人が、大学の先生となり、やがては教授となり、研究室をリードしてゆくということは、それはそれは難しいことである。そのためには、あなたは人が遊んでいる間に実験をしなさい。人が寝ている間に本を読みなさい。それで初めてあなたは、研究室をあるいは大学をリードできる教官が勤まるでしょう」
 この言葉は、私にはまさに至言であった。事実その通りであった。あれから、私は今に至るまでこの言葉を忘れたことはない。これまで、まがりなりにも島根大学の教授として勤めあげることが出来たのは、まさにこの先生の、このはなむけの言葉があったからこそだと思う。そうでなければ、典型的な「何じゃこりゃ」先生になっていたことであろう。
 
 昭和45年、岡山から島根大学に来たとき、大学は田園地帯のまん中にあり、一雨降ると道路は文字通りの泥道、ヌカルミであった。大学には長靴で通うのが当り前であった。その年の冬、豪雪があって大学が3日間ほど休校になった。
 次の年、大洪水があった。その次の年は大渇水であった。水の都、松江とはよく言ったものだと思った。その後、松江は立ち直った。島根大学も立派になった。これから益々良くなりそうで、考えると嬉しい。
 但し、人間は貧しいときの方が、いろいろと考える。実験方法についても自分で工夫する。それがまた楽しいのだ。研究室が裕福になり、設備が充実してくると、実験方法はすべて、マニュアル通りとなってしまう。使用する器具も disposable が多い。従って実験室には、いたずらに廃棄物が蓄積する。実験方法について自分で工夫する楽しみが、少なくなってしまった。
いつになっても、
   Ich denke also bin Ich.
の方が人生、面白いと思うのだが。
最後に、これまでお世話になった島根大学に感謝して終わりの言葉としたい。 だんだん  本当に有難うございました。

      定年の 朝となりたり 吾がために
                朝の化粧を 励む君あり

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